織物工場のデザイナーが村長に。56年間挑戦を続ける北川陽子が語った、人生の楽しみ方|滋賀県東近江市

前略
エネルギッシュな女性に元気をもらいたいあなたへ

1961年生まれの56歳。生まれたのは京都だがその後の育ちは滋賀県東近江(ひがしおうみ)市という彼女は、父親が脱サラしはじめた「北川織物工場」の長女。織物を織る機械から聞こえる「ガチャン」「ガチャン」という音は彼女にとっての子守唄で、物心付いた時から父と母が働いている姿をずっと見てきた。

「いつかは一緒に仕事するんやで」という両親の言葉をすんなりと受け取り、大学卒業後は家業を継ぎ地場産業に関わっていた彼女の転機は、今から9年前の2009年。北川織物工場の機械を止め、工場を「ファブリカ村」として再スタートすることを決断したのだ。

写真左:彼女こと、北川 陽子さん

現在はファブリカ村で村長を勤めながら、数々のイベントを開催しているという彼女。今回は、大好きだった工場での生産を辞め、新たに「ファブリカ村」として挑戦する決断をした背景や彼女の想いをお届けします。

プロフィール
北川 陽子(Yoko Kitagawa)
ファブリカ村 村長 / 地域デザイナー / 湖東繊維工業協同組合副理事長 / 産地振興委員長
1982年嵯峨美術短期大学卒業後、家業に就き地場産業に関わる。1999年北川織物工場内に絣工房Fabricaを併設。2009年織物工場を改装しギャラリー、カフェ、ショップの機能を持たせたファブリカ村をオープン。滋賀のモノづくりを発信する「湖の国のかたち」を始動。その後、子どもの育ちに芸術を取り入れた「子民家エトコロ」プロジェクト、子育て支援に関わるコミュニティ「マザーウテラス」、東近江のものづくりを紹介する「東近江スタイル」など幅広い分野で活躍中。

嫁入り道具の衰退から、ファッション業界へ挑戦

 1964年に北川織物工場ができてからは長いこと、嫁入り道具の一つである布団の生地を作る下請け会社として慌ただしく機械を動かす毎日。彼女も高校生の頃から工場を手伝っていた。そんなある日、織物の生産をまとめている「湖東繊維工業協同組合」で大きな動きがある。

北川織物工場も含め、東近江市あたりの織物工場はこれまでずっと「下請け工場」として動いてきた。だが、いつまでも下請け工場のままでは、近い未来安価な海外へと生産が流れていってしまう。この状況をいち早く見越した組合は、産地全体を「下請け産地」ではなく、「提案型の産地」にしようと動き始めたのだ。

北川織物工場:昔ながらののこぎり屋根
北川織物工場:昔ながらののこぎり屋根

この動きを受けて北川織物工場でも、今まで下請け工場として請け負っていた生地の作成に加えて、独自の特徴をつけた生地を作り東京の展示会に出展していった。そんな中で、山本耀司さんをはじめ、数々の有名デザイナーの目に生地が留まり、ファッションの生地づくりの依頼が舞い込む。

婚礼事業の衰退から嫁入り道具の生産が減少していたこともあり、北川織物工場のファッション業界への挑戦が始まっていったのだ。

大量生産・大量消費・大量廃棄から脱却

ファッション業界で挑戦を続けていく中で、いつから「消費されるものづくり」をしていたのだろう。市場にだんだんと物が溢れるようになり、使われる生地の値段がどんどん下がるにつれて、大量生産・大量消費が横行していた。ビジネス業界の変化に合わせて、ものづくりの立ち位置が変わっていくのがわかった。

そんな時一つの大クレームが発生する。生地の一部に滑脱(かつだつ)*1 があったという。欠品が出ればブランドのイメージを守るために安く売るのではなく、すべてを焼却処分する。これが当時のファッション業界におけるルールだった。

*1 滑脱
縫い目が開く現象のこと

糸を染めて、その糸から生地を作る。染めの行程を手作業で行っていた北川織物工場では、500mの生地を作るのに約1年という年月がかかる。手仕事で丁寧に丁寧におられた生地が一瞬にしてすべて焼却処分になってしまったのだ。この時初めて「ビジネスの波には乗っていけない」そうと思った。

大クレームが起こる少し前から、彼女は「アートインナガハマ」というクラフトフェアに何度か出店をしていた。ここは職人や作家自らが自分の作品を持ち寄り、出店する場所。

これまで北川織物工場では、商品を作る前の生地しか作っていなかったため、彼女は自ら「ファブリカ」というブランドを立ち上げ、クッションや洋服などの製品を作り、アートインナガハマを通じて初めて直接お客さんに商品を届ける体験をする。

ここで彼女は消費されるものづくりではない、お客さんが納得して購入してくれることが本当に嬉しいと思うと同時に、モノだけを売る大変さを痛感する。出店数を重ねるごとに彼女のようにビジネスに違和感を感じている作り手にも多く出会う。

クラフト展や作品展を通じて「もしかしたら、単にモノだけを売る時代ではないのかもしれない」と思い始めた彼女は、これからの仕事のやり方を模索しはじめる。そんな時だった、彼女の父親が急死したのは。

少し先の楽しみを持って、何事も継続する

父親が亡くなって落ち着いて今後のことを考えられるようになった時、改めて人を雇い工場を続けていく気力はなかった。ビジネスの波に揉まれる世界よりも、工場の空間を活かしてアートインナガハマのように作り手と使い手が繋がれる拠点「ファブリカ村」をつくりたいと思った。

使い手に直接売ることで感じていた「単にモノづくりをして、それを売るだけでは人は買わない」という課題を、コトづくりで解消しようと思っていた。人は「楽しそう」と思えば、足を運ぶ。だからこそ、単にモノを売るのではなく、作家さんとの組み合わせで布と器をセットにしてみたり、ストールの巻き方という講座やファッションショー、麻を着る会などのイベントを開催した。時にはライブやパーティーなんかもやった。

今まで職人として働いていたところから、イベントの企画を考えたり、集客をしたり、当日運営までを担うのは正直大変だった。嫌な思いをすることもあったけれど、それでも続けてきて本当に良かったと思っている。何事も継続は力だなと今だからこそ言える。

辛いことがあっても継続できたのは、少し先の楽しみを常に持っていたからだと思う。日々は目先の楽しみの積み重ね。だからこそ先を見通すことも大切だけれど、今うまくいかなくても「ええわ、明日あるし」って先の楽しみにシフトさせることが大切。

楽しみはなんだっていい。「明日誰とご飯にいく」とか「大好きな歌手のコンサートに行く」とか、仕事は関係なくていい。小さな楽しみと大きな目標があるから、人生にワクワクドキドキできると思うから。

あとは常に人間は一つのことしかできないのだから、やる時は一つのことだけに集中する。そして、相手に自分を合わせない。今までもこれからも、きっといろんな人がいろんなことを言ってくるだろうけれど、自分のことをわかるのは自分だけ。だからこそ常に自分の芯を持っていることが大切。

モノづくりからコトづくり、ヒトづくりへ

ファッション業界にいた時とお金の規模はまるで違うけれど、言われたものだけを作って悲しい思いした時に比べると今は、自分のやりたいことや好きなこと、楽しいことしかしていないから充実している。

多くのビジネスでは、時に利害関係のある駆け引きが起こってしまう。だからこそ、彼女はファブリカ村はビジネスとしてではなく、彼女が誰かの人生を進めるためのある意味 “おせっかい” がやける場所として確立させている。

つい先日も14年前に出会い、ファブリカ村でお菓子を出していた女の子に会った。「いつかカフェをやりたい」と言っていた少女に、彼女は場を提供しただけにすぎない。この場を活かせるかどうかは本人次第。でも、今立派なカフェを経営している少女は「あの時場を提供してくれたからだと」話してくれた。

彼女はこういう瞬間が好きだ。ファブリカ村を通じて何かが生まれ、それを嬉しそうに話してくれるこの瞬間が大好きでたまらない。

ファブリカ “村” は、人が群れてくる場所・個の集合体という意味を込めて付けた名前。未来に育むモノづくりを目指して、つくるよろこびをテーマに発信し続けてきた。

これまでは、今まで存在していた「モノづくり」に「コトづくり」をくっつけて、モノの価値を多くの人たちに届けてきた。だからこれからは、地域の未来である子どもたちを育てる「ヒトづくり」をしていきたい。

滋賀には近江商人の「三方良し」という理念がある。昔から儲けたお金を地域を良くするために使う文化がある。今これだけ自由に自分のやりたいことをやっているのは、工場や財産を残してくれた両親と、自分の「やりたい!」を一緒に形にしてきてくれた周りの人たちのおかげ。

だからこそ、これからは地域で頑張っている若者や、これから地域を盛り上げる子どもたちに恩送りをしたいと、彼女は今日もパワフルに走り続けるのだ。

そして今回、パワフルすぎる彼女と過ごしながら「滋賀ぐらし」を満喫できるツアーが開催されるそう。詳細:こちら

「生きてたら難しいことも迷うこともあるよ。私は30年かけてここまでプラス思考に仕向けてきたんだから、そんなすぐ若い人にわかられたら困るわっ!」と明るく笑顔で悩みを吹き飛ばしてくれる彼女にぜひ会いに行ってみてはいかがでしょうか?

草々

Writer:高山奈々

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