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LOCAL LETTER

傍観者だった自分と震災支援する自分の狭間で揺れるリアルな心情

JAN. 25

JAPAN

拝啓、震災支援とどう向き合って良いか分からず葛藤しているアナタへ

これまで震災が起きた時、震災支援として何かに取り組んだことは正直ありませんでした。あえて挙げるとすれば、Yahoo!ないしLINEで「3.11」と検索するくらい。

そんな私ですが、今回、能登半島震災は、SNSでの情報発信、イベントなどで被災地支援に絡められないかと考えたりしています。

実際にはじめて震災支援と向き合ってみた中で、「何か力になりたい!」という気持ちは嘘じゃない一方で、なんだか心がソワソワする自分がいました。

その様子をみていたWHERE / LOCAL LETTERのぽぽさん(代表、平林)に、「それ、すごく大事な感情だね。同じように思っている人もいると思うから向き合ってみたら」と言われ、言葉にしてみることに。

まずは、何がソワソワしているのか、もう少し具体的にしてみると、

・これまでは傍観者だった自分が情報発信や行動をすることに対する違和感?(周りからの見え方が気になっている?)
・被災者やゆかりのある方と、どう接すれば良いのかが分からないことへの困惑?
・いざ何かをしようとしたときに、何が自分に出来るのか想像がつかないことへの怖さ?

語尾が「?」になっているのは、まさにソワソワの渦中にいるため、断言できない自分がいたからです。

今のところさきほどあげた3つがソワソワの原因なのではないかと言葉にして整理してみました。

こんな気持ちを感じているのは私だけかもしれません。

ただ、この心のソワソワの正体を少しでも知ること、自分の中で解像度を上げることが、自分にとって、そして同じように悩んでいる人にとって何かのヒントになるんじゃないかと、このソワソワする心を掘り下げていければと思っています。

少しだけ一緒にお付き合い頂けたら嬉しいです。

傍観者だった自分と震災支援する自分とのギャップ

今までも何度か自然災害は起きていたと思うけれど、私がパッと思い出せる災害といえば、2011年の東北大震災、熊本大震災、昨年東北で起きた大雨による災害。

このくらい。

東北の大雨も、たまたま知人が秋田県に支援に行っていたから覚えていたのであり、もし身近にいなければ、私の記憶からは早々に風化されていたのではないかと思う。

恐ろしいことに、あらためて日本で起きた自然災害を調べてみて、新潟県中越地震のことを思い出したくらいには、私の震災に対しての意識は希薄と言わざるおえない。

そんな私が、今回の能登半島震災においては、自分のSNSで情報を発信したり、イベントに絡めたり、クラウドファンディングを手伝おうとしているのだ。

自分のストーリーで情報発信をしていた投稿
自分のストーリーで情報発信をしていた投稿

頭の中で今まで何もしてこなかったのに。という言葉がちらつき、だんだんと過去の自分と比較しては、自分が偽善者のように思えてならなかった。

そして、そんな自分を正当化するかのように、今回は動いている言い訳を探し出す。

・かつて能登を訪れていたり、石川県、そして、周辺地域の富山県、福井県にも知り合いがいたことで、自分にとっても身近な地域だった。
・仕事で地域に関わるようになったり、コミュニティマネージャーという職種柄、いろんな人と出会い、自分の周りで情報発信をする人や行動に移している人が圧倒的に増えた。

こうして書いてみると、行動してみようと思った動機としては充分な気もするし、これまで動いてなかったからといって、今回も動かない選択をする必要もないとも思える。

ただ、やっぱりどこかで『今まで何もしてこなかったのに。』『ただ見てるだけだったのに。』という囁き声が脳内から聞こえてくる。

それは誰に言われたわけでもなく、自分で勝手に自分を指差してるだけ。

それでも、周りからもそう思われてはいないか。

いや、仮に思われたからといって何なのか。

そんな答えの出ない押し問答を今も繰り返す。

非被災者である自分の在り方

今回の震災について、もちろん心が痛まないわけではない。

もし、東京で大地震が起きたとしたら。
もし、自分の家族や大好きな友人たちが被災をしたら。

そんな想像をすることすら憚られるほど、同じ状況に自分が立ったとしたら、とても辛い。

ただ、「今」の自分はその状況にいない。あくまで非被災者なのである。

だから、どうしても、実際に被災に直面してる人の気持ちには本当の意味で寄り添うことができないと思ってしまう。

それは、私が昨年の11月に大好きだった祖父を亡くし、身近な人の死に直面したからより強く思うのかもしれない。

祖父が亡くなった時に感情のやり場がわからず記載したnote
祖父が亡くなった時に感情のやり場がわからず記載したnote

いつか来るものであると分かっていたとしても、いざ直面してみると、そんな冷静でいられるわけがない。

いつまでも悲観的になってはならないと思っていても、周りに心配をかけたくないとは思っていても、どうしたって心がついていかない。

一方、いざ美味しいものを目の前にすればお腹は空くし人に会えば笑顔になれる自分もいる。

この悲しみや不安、喪失感といった感情と楽しさ、喜び、暖かさといった感情の混在具合が、自分でもどうにも折り合いが取れずに混乱していたことを思い出す。

もちろん、私が経験した祖父の死と今回の震災とを重ねるものではないが、今、まさに震災による影響に直面している人たちは一体どんな気持ちなのだろうか。

そう考えた時に、どんな風に声をかけていいのか、どこまで尋ねていいのか。

土足でドカドカと相手の心に入って傷つけたくはない。
そう思えば思うほど、私はどう接すれば良いのかが分からなかった。

けど、ここまでを振り返り、どうすればいいのか、素直に相手に尋ねてみれば良かったのかと思う。

想像したところで相手は全然違うことを感じているかもしれない。私が勝手に想像して、何もしない選択をするのは違うのかもしれない。

そして、同じように私もどう感じてるのかを相手に伝えた方が良さそうだとも思った。相手もなぜ私がそんなことを質問したのか分からないかもしれないから。

他者からの反応を気にする自分

ここまで、自分の気持ちを掘り下げながら文章を書いてみましたが、なんだか自分の保身のために書いているようにも思えてしまい、やっぱり心がソワソワしています。

正直、会ったこともない人に自分の考えに対して何を思われてもそこまで気になりません。

人によって価値観は違うということは、表面上では分かっている“つもり”です。

そして、私は家族ラバーを至る所で公言していますが、家族からの反応もあまり気になりません。

なぜなら、何を言っても絶対大丈夫という根拠のない自信が家族にはあるからです。

今回の文章を書いていたときの母とのやりとり
今回の文章を書いていたときの母とのやりとり

では、誰に対して保身をしているのかと問われると、自分の大好きな友人や仲間、顔を思い出すことができるくらいには関わりのある人たちなんだと思います。

自分が書いた文章について、どう思われるのかが怖い。
文章を読んだ先に、自分が意図してない受け取り方をされてしまうのが怖い。

それは、私自身、他者がSNSなどで情報発信する姿をみて、
自分を卑下してしまったことが実際にあるから。

自分は何もしていないことに罪悪感や劣等感を抱き、
一方で行動には移さないという矛盾する自分に嫌気がさしたことが何度もありました。

そして、ここまで書いてもう一つ気がついたのは、
友達からの反応に対して、自分とは違うと線を引かれてしまうのが怖いし、寂しいと
思っているのかもしれないということ。

恐らく、線なんてひかれていないし、私が捻くれている可能性が大なのですが、
「意識が高いね」「偉いね」「凄いね」「イキイキしてるね」
そういった言葉を貰うたびに、時として素直に受け取れない自分がいたのは、
どこかで距離を感じてしまって、寂しさを感じていたのかもしれません。

当然、年齢を重ねるにつれてライフスタイルも変化するので、
同じことを一緒にすることは難しい。

それでも、それぞれが「自分ならどうするか」を一緒に悩んで考えることはできる。

けど、「凄いね」の一言だけを言われてしまうと、
そこで終わってしまうような感覚があって。

きっと、凄いねと言ってもらうより、
「どうすれば良いんだろうね」と一緒に悩んでほしかったのかもしれません。

自分なりの震災支援との向き合いかた

周りからどう見られているかはさておき、
私自身、今回の震災についても自ら率先して支援に取り組めているわけではありません。

ただ、これまで自分の心だけで留めていたものを、
「何ができるか分からないけど、何かしたいと思っている。」と声に出したことで、
周りから声がかかったり、一緒にどうできるかを考えてもらって、はじめて行動というカタチになってきています。

被災地域が生産地の食材を持ち寄ったり、現地で被災活動をしていた方とオンラインを繋いで お話ができる機会にしたイベントを企画中
被災地域が生産地の食材を持ち寄ったり、現地で被災活動をしていた方とオンラインを繋いでお話ができる機会にしたイベントを企画中

と書きましたが、
本当のところ「何かしたいです」と、声に出すことも怖いです。

なぜなら、声に出したらやらなきゃいけなくなるし、
何ができるのか、何をすればいいのかが、自分で想像できないことも怖いし、
上手くいかないことを考えるとやっぱり怖いからです。
(ずっと、怖いとしか言っていませんね。笑)

けど、最近は自分を甘やかすことを覚えました

まずは、朝、起きれた自分を褒める。
そして、寒い中散歩に出掛けた自分も褒める。
帰ってきたらきなこ味のプロテインの美味しさに浸る。

毎朝日課にしているお散歩の場面
毎朝日課にしているお散歩の場面

そうやって、とにかく幸せのハードルを下げながら、
一旦、自分が気になっていた怖さや違和感、葛藤と離れることに徹します。

もちろん、毎回そんな方法で落ち着くわけもなく、
頭では分かってはいても、全然頭から離れず苦悩することもあります。

そんな自分を「めんどくさいなー」「またかー」と思いながら、
なんとか自分の背中を叩いて、歩かせている感覚です。

そして、今回、この文章を書くことで、書いた当初よりは多少なりとも
自分の中で感じていたソワソワが和らいだような気がしています。

他者からの反応に対しての葛藤については、
「怖い」「寂しい」という気持ちを言葉にしたことで自分なりに認知ができたのか、
なんだか少しスッキリしました。

取り組みに対しての葛藤については、
まずは相手のことを知ること。そして、私自身も気持ちを伝えることからはじめようかなと思っています。

おわりに

もし、私と同じではなくても、
何かしら自分の中で違和感や葛藤のような気持ちを抱いている方がいたら、
一旦、無理に答えを出そうとしなくても良いのかもしれません。

ある時、あの気持ちの正体はそれだったのかも!
となるかもしれないですし、ならないかもしれません。

何かしたい気持ちはあっても、動けない。
そんな時は、自分の中で動ける準備ができたときに動けば良い
過去の自分に言い聞かせる意味でも、そう考えるようにしています。

これで本当のおわりになりますが、本来であれば、
もっと整理して、読みやすい記事を目指すべきだったのかもしれません。

ただ、どうしても文章にすると、自分の知っている言葉での表現にしかならず、
綺麗にまとまってしまうことに、もどかしさがありました。

なので、なるべく今の自分から出てきた言葉のまま書くように努めたつもりです。

私自身は、今回はじめて動いてみたことで生じた心の葛藤と戦っている最中です。

冒頭でも、こんな気持ちになっているのは自分だけかと書きましたが、
「ああ、自分だけじゃなかったのか」と思えると、私は、安心して気持ちが少し楽になります。

今回書き出してみた私の葛藤が、誰かにとっての安心にも繋がっていたら嬉しいです。

私も日々、揺れながら、自分のペースで向き合っていこうと思います。

それでは、少しと言いつつ長くなってしまいましたが、
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

Editor's Note

編集後記

今回の内容はあくまで一例にすぎず、誰もが何かしらモヤモヤしたり、これってどうなんだろう?と思うことが日々あるのではないかと思います。

こんな葛藤をするのは自分だけかもしれない。と気持ちが下がってしまう時もありますが、皆んなも何かしら葛藤しているんだと思いながら、うまく自分の葛藤とも付き合っていきたいと改めて考えるきっかけにもなりました。

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