Ryokan
旅館再生
「この人の人生が気になる!」そんな旬なゲストと、LOCAL LETTERプロデューサー平林和樹が対談する企画『生き方 – 人生に刺激を与える対談 -』。
第8回目のゲストは、宿泊機能だけでなく、ライフスタイルの提案をし続ける宿『里山十帖』を新潟県南魚沼市にオープンさせた、株式会社自遊人代表の岩佐十良さんです。
元々は雑誌のプロダクション会社として東京で「24時間365日いかに働けるか」と戦ってきた岩佐さんでしたが、「生き方」について考えを改めるようになったのは、過労死で亡くなった仕事仲間の存在だったと言います。
当時は働き詰めの毎日でコンビニ飯が当たり前。「これが本当に豊かな生活なのか」と問い始め、新潟県南魚沼市へ会社をまるごと移転、自らも移住してしまったことで人生を変えていった岩佐さん。
「今のままの生き方・働き方でいいのか」と考えているアナタに注ぐ、一匙の刺激をお届けします。
平林:まるで開拓者のような人生を歩まれている岩佐さんの人生を、改めて深ぼっていきたいと思っているのですが、岩佐さんは東京ご出身でありながら、20年ほど前に新潟・南魚沼に移住をされているんですよね?
岩佐:そうです。移住した約10年後の2014年に『里山十帖』という宿を開業しました。
平林:岩佐さんと言えばホテルの運営だけでなく、雑誌『自遊人』の創刊も行われていて、本当に多彩だなと感じているのですが、そもそも会社を設立されたのは大学在学中だったとお聞きしました。
岩佐:そうなんです。武蔵野美術大学でインテリアデザインを専攻していたんですが、在学中の1989年にデザイン会社を起業しました。
平林:なぜ在学中に起業しようと思われたのでしょうか。今でこそ大学在学中に起業する方が増えていますが、当時はとても珍しかったですよね?
岩佐:今思えば浅はかな考えだったんだけど、「先行逃げ切り」を狙ったんです。大学の同級生たちが本当に優秀で、僕はそれに劣等感があった。だからこそ、彼らよりも一足先に独立をしたら、もしかしたら勝ち逃げできるんじゃないかなって(笑)。
だけど社会に出てみたら(今考えると当たり前なのですが)、社会には学年に関係なく優秀な起業家たちがたくさんいて、「これは本気でやらないとヤバい」と思って大学を辞めました。
平林:そのタイミングで辞められたんですね!
岩佐:親にもぶん殴られました(笑)。あと半年大学にいれば卒業もできたタイミングだったんですが、中途半端だと何も上手くいかないと思い、「事業一本で行くぞ」と腹を括りました。
平林:岩佐さんがつくる雑誌『自遊人』を読んで思うのは、その独特な存在感。ブームや流行を追うのではなく、「人生の豊かさ」を本質的に問い続けているメディアだと強く感じる中で、そのユニークさはどこから生まれたのかお聞きしたいです。
岩佐:『自遊人』を創刊したのは2000年。1989年に会社を立ち上げているので、編集プロダクションとしていろんな雑誌に携わっていた期間が約10年ありました。だからこそ「今までの雑誌とは違うものをつくりたい」と考え、自分自身が「豊かだ」と思う世界観を雑誌に閉じ込めたのが『自遊人』なんです。
平林:僕自身も起業した当初から、会社のビジョンに「誰もが心に豊かさを持つ世界を」を掲げているのですが、岩佐さんが「豊かさ」への問いに辿り着かれた経緯はなんだったのでしょうか?
岩佐:編集プロダクション時代に、僕の周りで立て続けに3人の方が過労死したことがきっかけでした。当時の僕らは「24時間365日どれだけ働けるか」といったような、考えられないような働き方をしていたんです。
僕自身も死ぬほど働いてお金も得て、東京タワーやレインボーブリッジが一望できるような高層マンションに住んでいましたが、食べてるものは3食コンビニ飯。ある時ふと「この人生は豊かなのだろうか」と思ってしまったんですよね。
亡くなった方は3人とも30代後半ぐらいの働き盛りの年齢で、死んだら何にもならないなと痛感しましたし、次に死ぬのは俺かもしれないと考えました。だからこそ「このままではいけない」と生き方を考えるようになったんです。
平林:生き方を考えた上での移住だと思うのですが、岩佐さんと新潟県との出会いは何だったのですか?
岩佐:お米ですね。『自遊人』の中でお米の特集を組んだことがあって、それをきっかけに「お米の勉強がしたい」と思いはじめたんですよ。そこで辿り着いたのが新潟県南魚沼市でした。2004年にオフィス移転をしたんですが、実は最初の候補地は長野県軽井沢町だったんですよね。
平林:元々は違う場所が候補地だったんですね!
岩佐:ここまで全国的に軽井沢が注目される前ではありましたが、当時から軽井沢は魅力的な町で、スタッフも「軽井沢なら移転していい!」と賛同してくれていたんですが、日本中の米産地を巡る中で、「やっぱり南魚沼市のお米がおいしい」と虜になってしまい。当初は、数年間南魚沼市でお米の勉強をして、その後に軽井沢へ移転する予定でしたが、すっかり南魚沼が気に入ってしまって今に至ります。スタッフからは「軽井沢行く行く詐欺」と二十年経った今でも言われますよ(笑)。
平林:南魚沼市に移住したことで何か変化はありましたか?
岩佐:本当に驚きなんですけど、時間の余裕が生まれました。それまでは来客対応やカメラマン・デザイナーとの打ち合わせに時間をとられていて、徹夜が当たり前の日々だったんですが、移住をしたことでそれらの時間が全部なくなって、農作業ができるぐらいのゆとりが生まれました。
平林:じゃあ、東京に行くのは編集に関する打ち合わせのときだけ?
岩佐:それすらもやめましたね。むしろ「何かある場合は、南魚沼に来てください」ってお伝えしてたら、誰も来なくなりました(笑)。途端に暇になって、農作業に時間をあてていたら、結果的に規則正しい生活になって、食事にも気を遣うようになったんです。
だからライフスタイルが変わったのは、南魚沼市に移転して農業を始めたからというよりも、南魚沼市に移転して打ち合わせが激減したことで、暇になって農作業できるようになったからですね。
平林:人生100年時代だからこそ、僕はいかに「健康でい続けられるか」がすごく大事だと思うんですよね。岩佐さんは「年に何日」と決めて登山やスノボをされているぐらい健康でアクティブじゃないですか。岩佐さんのような大人になりたいなって憧れます。
岩佐:南魚沼に引っ越します?(笑)。たしかに、お米の勉強をしたいと思って移転・移住をしたことで、時間がたくさんできて、米づくりどころか「今日の雪いい感じ!」と思ったら1本滑って仕事に行くこともできているし、「もうすぐ山の花が咲きそうだから山を覗いてから仕事に行こうかな」なんてこともできています。あのまま東京にいたら過労死していたかもしれなかった僕が、移住をしたことで自然に寄り添った人間らしい生活を送れていると思いますね。
仲間が立て続けに過労死したことで、生き方や豊かさを問い直した岩佐さんの後編記事は2023年5月10日20時配信予定!
後編では、廃業予定だった旅館を稼働率90%以上の人気宿に生まれ変わらせ、ライフスタイルの提案をする宿の先駆けとして数々の実績をあげている岩佐さんから、宿創業までの背景や葛藤、そして今後についてお話いただきます。後編『僕は手品師ではない。稼働率90%越えの宿「里山十帖」オーナー 岩佐氏の哲学』もお楽しみに!
Editor's Note
人生100年時代。今一度、自分の生き方を問い直し始めている方が増えている中で、きっと多くの方の胸に響くこと間違いなしな岩佐さんの人生。「自分にとって大切なものは何なのか」「そのためにどう時間を使うのか」。今一度問い直してみようと思いました。
YURIKA YOSHIMURA
芳村 百里香