KAGOSHOMA
鹿児島
鹿児島県の離島、口永良部島(くちのえらぶじま)。
この島は、本土から直接行くことができない“二次離島”といわれる島で、1日1便の屋久島から出るフェリーでしか辿り着くことができません。そして人口は約100人、「島民全員顔見知り」の島です。
今回お話を伺ったのは、東京から口永良部島に移住した元・屋久島町地域おこし協力隊の池添慧さん。やりたいことにチャレンジし、合わなくて辞めるという経験を繰り返した先で、辿り着いたのが口永良部島でした。現在は島で、水産加工場「港のとと屋」を経営しています。
池添さんの価値観はどのように変化していったのか、そして島で見つけた「生きがい」とは。池添さんの人生をさかのぼって、お話を伺いました。
東京で生まれ育った池添さん。今でこそ島の暮らしを謳歌していますが、東京に住んでいた頃は、今とは全く違う感覚で生きていたといいます。
「当時は都会で暮らす以外の想像が全くできませんでした。東京だと家賃も高いし、とにかく働かないといけない。『お金が全て。お金が生活を握っている』という思考だったので、仕事のない田舎に行くなんて不安でしょうがない。自分はずっと東京で暮らしていくのだろうと思っていました」
将来離島に移住するなんて、当時の池添さんからすれば思いもよらなかったこと。東京では、何度も挫折があったと苦い思い出を語ってくれました。
まず、学生時代に池添さんが目指したのは、法律の道でした。高校では一生懸命勉学に励み、明治大学の法学部へ進学。「かっこいい」と思って進んだ道でしたが、授業が進むにつれ、「勉強内容が自分には合っていない。自分のやりたいことは、ここにはない」と感じるようになりました。
大学へ行くことが億劫になった頃、あるインディーゲーム(*)にハマったことをきっかけに、池添さんの興味はゲーム作りへ。1年大学を休学してオリジナルのゲームを制作し、iOS版とAndroid版でリリースまでしたといいます。
*インディーゲーム:大手のゲーム会社やパブリッシャーからの資金や支援を受けずに、個人や小規模なチームによって制作されたゲームのこと。
しかし、1年もかけて作ったゲームの売り上げは、わずか1万円程度。やりたいことを仕事にする難しさを突きつけられます。興味がなくなった大学の授業に戻ることもできず、大学を辞めることに。
その後、約30社のゲーム会社に履歴書を送ったものの、見向きもされなかったそう。少し方向を変えて、今度はプログラミングのスキルを身につけ、プログラマーとして広告系のIT企業に入社しました。
「渋谷のど真ん中で1年半ぐらい働きました。自分のやりたいことはモノ作りだったのです。でも、プログラマーとして成長する人は、プログラミングの作業、それ自体が好きな人でした。このちょっとした違いが大きな差で。
加えて、東京大学や京都大学出身者の中に、大学中退の自分がいて、そういう優秀な人たちとの軋轢もありました。この先、この仕事をずっとは続けられないと思い、会社を辞めました」
その後は、半年間ほど実家に引きこもっていたといいます。
「大学は自分なりに良いところに行ったつもりで頑張ったけど、結局中退するという苦しい経験でした。親に申し訳なくて。これで頑張るんだと決めたゲーム作りは、1万円という利益しか出せなくて。次こそ親孝行ができると思って選んだプログラマーの道も、自分には合わなかった。人生のどん底のような気持ちで、家に引きこもっていました」
実家での生活が半年を過ぎた頃、次に池添さんが夢中になっていたのは田舎暮らしゲームでした。
「ゲームの中でニワトリを育てるんですが、朝起きたらニワトリを撫でる仕事があって、だんだん懐いてくれるんです。それがとても可愛いくて。今までやってきたこととは全然違うけど、農業の世界に行ってみようかなと思いました」
ゲームの中で育てるのと実際に育てるのでは全然話が違うよ!と誰もが突っ込んでしまうところだと思います。でも、きっかけは何だっていいし、始まりはこれくらいポップでいいのかもしれません。
さっそく「農業体験」と検索。茨城の農業専門学校に、1週間お試し入学することになりました。
「12月のクリスマス前後で、ものすごく寒い中、冷たい水で大根を洗ったのを覚えています。拷問のような作業だったけど、これが本当に楽しかった。
それから、休憩時間に焚き火で暖を取る機会があったんです。そのとき、体が温まる以上に心が温められて、自然と涙が出てきました。こういう生き方があるんだなって。農業は人と協力しないとできないことだから、人との繋がりも感じたし、『自然の中で生きる』ということを初めて体験しました」
この感動体験が、今の島暮らしの原体験だったのかもしれません。
こうして茨城に移住し、農業学校で丸2年働いた池添さん。「農業の仕事は本当に楽しかった」と笑顔で振り返ります。
しかし、学校の経営不振により、この場所も去ることになってしまうのでした。
口永良部島との出会いは、東京ビッグサイトで行われた地域活性を促すイベントでした。
各市町村のブースがあり、移住相談や地域おこし協力隊の詳細が聞けるイベントで、豊かな自然のイメージに惹かれて立ち寄った屋久島町のブース。「ここなら自由に活動させてもらえそう」という直感で、屋久島町地域おこし協力隊(以下、協力隊)に応募することを決めました。
「屋久島町の協力隊は、屋久島と口永良部島の2島の選択肢がある中で、初めは屋久島を希望しました。でも先輩の協力隊員から『屋久島の倍率は8倍で、口永良部島は1倍』という話を聞かされたんです。
次の仕事がないと困ると思ったので、面接時に口永良部島でもいいと伝えました。役場の方に『本当にいいの?』と聞かれたけど、その意味を全くわかっていませんでしたね(笑)。屋久島にさえ行ったことがなかったし、口永良部島のイメージはゼロの状態でした」
2020年、仮内定が出て、初めて口永良部島を訪れた池添さんは「大変なところに来てしまった」と思ったそう。
「島に着いて、1泊2日で島のすべてを見終わってしまったんです。ここまで来たからには後戻りはできないと思いながらも、正直、この先何十年も住むのは難しいだろうと思ったし、2年くらい遊んで楽しかったらいいや!くらいの気持ちでした」
しかし、島の人々との関わりによって、池添さんの気持ちは大きく変化していきました。「これ以上話すと涙が…」というくらいの大切なエピソードを語ってくれました。
「山の伐採作業をしていたときの話なのですが、傾斜地で木にまたがろうとした際、木が腐っていて1、2メートルぐらいの高さから落ちてしまったんです。ちょうどつき所が悪くて、腕を脱臼してしまって。
でもその日は船の便がもうなくて、一晩島の診療所で寝るしかありませんでした。すごく痛くて、なかなか眠れずにいましたが、伐採作業を僕に依頼した社長さんが一緒に診療所にいてくれました。
何かあると、すぐに「大丈夫か」と駆けつけてくれて、次の日も船をチャーターして、屋久島の病院まで一緒についてきてくれて。自分のせいで起きた事故でしたが、この人は家族なんじゃないかというぐらい親身になってくれたんです」
他にも、人口100人の島で暮らしていると、みんなの趣味や特技、休日の過ごし方まで、仕事の肩書きだけではない、人となりを知っているとか。
例えば船が壊れて溶接が必要になったとき、これまでなら業者に依頼するところを「あのガソリンスタンドのおじさんが溶接できたはず」と頼みに行く。困ったときは得意な人にお願いする。そういう助け合いが当たり前に行われているといいます。
「島の行事が終わった後は毎回飲み会があるんですが、僕の場合は、そういう場に自分が獲った魚を持っていくんです。そうすると『これ慧が獲ったのか!すごいな!』と褒めてもらえて、自分の存在を認めてもらえている感じがすごく嬉しくて。
こういう瞬間の積み重ねで、地域コミュニティの中にも自分の居場所を感じられるようになり、いつしかずっとこの島に住み続けたいと思うようになりました」
池添さんは、島での自然体験にも魅了されていきました。
特に虜になったのは、素潜り。島の漁師さんと仲良くなり、「手伝いをしているうちに海が大好きになり、素潜りで魚が獲れるようになると、島での暮らしがどんどん楽しくなっていった」と目を輝かせます。
「魚を獲ることが仕事になったらいいなと思いましたが、素潜り漁だけでは難しい。それなら、獲ってきた魚を自分で加工し、販売までできればと考えました。
既に協力隊としての活動は2年目を終えようとしていましたが、この頃には『どうしたらこの先もこの島で生活できるか』を考えるようになっていたと思います」
まずは加工場をつくるため、クラウドファンディングで資金調達にチャレンジ。そして驚かされるのは、地元の大工さんに教わりながら自分で建物を建設したということです。
もともと改修を予定していた建物は、シロアリの被害が大きく、すべて取り壊すことに。そうしてゼロからとなった建設作業は、想像以上に時間やモチベーションを奪うものでした。
しかしその頃、地域課題の解決や地域活性化に取り組む人財育成を目的とした「熊毛リーダーズスクール」に参加し、自分の気持ちをより明確化できたといいます。特に、香川県三豊市へ視察に行った際のことが深く記憶に刻まれているのだとか。
「三豊では地域のおじさんたちが楽しそうに活動していて、それを見た若者が移住するという現象が起こっていました。なんだこれ、超羨ましいぞ、と。
島に移住して2年経つのに、地域に何も還元できていない自分と、実際何か活動して人を呼べている三豊の人たち。勝手に比較して、泣くほど悔しい気持ちになりました。そこから、自分の中で覚悟が決まってきたと思います」
こうして約2年の歳月をかけて建物を完成させ、ついに2024年4月、水産加工所「港のとと屋」をオープンしました。
「やりたいことにチャレンジした結果、合わなくて辞める」を繰り返し、挫折を味わった池添さん。けれど、そのトライ&エラーの先には、想像もしなかった今がありました。その時々の「好き」や「興味」に素直に向き合い、手探りで挑戦してきたからこそ、本当にやりたいことを見つけられたのではないでしょうか。
その「やりたいこと」はきっと、「魚を獲って加工して売る」ということではなく、「この島に住み続けたい、この島の人たちに恩返しがしたい」、そういう仕事を超えた願いなのだと思います。そして、それこそが池添さんの見つけた「生きがい」。
やってみて合わなければ何度辞めたっていい。
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Information
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Editor's Note
「自分が魚の加工業を担うことで、今後この島で漁師をやりたいという人が現れたときに魚を買い取ってあげられる。誰かのやりたいことを手伝って、叶えてあげられる人になることが僕の次のビジョンです」と語る池添さんは、とても生き生きとしていました。
ほとんどの人が訪れたことのない島だと思います。これをきっかけとして、ぜひ口永良部島の魅力を体験しに、池添さんのところへ足を運んでみてください!
CHIERI HATA
はた ちえり