教育
「この人の人生が気になる!」そんな旬なゲストと、LOCAL LETTERプロデューサー平林和樹が対談する企画『生き方 – 人生に刺激を与える対談 – 』。
第10回目のゲストは、25年以上前から不登校の子どもたちの学びの場づくりに取り組み、通信制高校「N高」設立の第一人者であり、小中学生向けのオンラインスクール「クラスジャパン小中学園」を立ち上げた中島武さんです。
中島さんは現在、新しい義務教育と暮らし方を創造し、地域創生を目指す「地域特例校100校開校プロジェクト」を推進中。子どもたちの未来の選択肢を増やすべく、日々奮闘される中島さんの姿に感化され、多くの人が同プロジェクトに意欲的な姿勢を見せています。
そんな中島さんが繰り返し語られたのは、「切り開く」という言葉。
自分自身の人生を精一杯生き続けているアナタに注ぐ、一匙の刺激をお届けします。
平林:中島さんが掲げた「地域特例校100校開校プロジェクト」の存在を知り、特集記事を組ませていただいたのが、2022年の8月でした。
平林:以降、さまざまなプロジェクトでご一緒させてもらっています。まさに“走り出す”という言葉がしっくりくる中島さんの熱意を日々感じていたので、本日お話できることを楽しみにしていました。
中島:ありがとうございます。
平林:まずは、中島さんが教育業界に携わるまでの「生き方」について教えてください。
中島:僕が教育業界に携わるようになってから、26年ほどが経ちました。でも、元々は教育分野の人間ではなかったんですよ。教育業界においても、「通信制高校」に関わったのがスタートだったので、珍しいケースだと思います。
通信制高校に関わりはじめたのは、1993年頃です。当時、通信制高校は社会的に少し下に見られていたんですね。「学校に行けない子どもたちが仕方なく行くところ」だと。
そもそも通信制高校は、勤労学生のための制度でした。仕事をしながらでも高校を卒業したい。そういう高校生のためにできた制度で、昭和初期から存在しています。しかし、近年不登校の子どもたちが増加傾向にあり、そういった子どもたちの受け皿を作ろうという動きから、現在の通信制高校の形につながったんです。
平林:なるほど。通信制高校は、そういう成り立ちのもとに生まれたんですね。
中島:私自身は、学校が好きな子どもだったので、小・中・高・大学まで当たり前のように進学しました。だから、通信制高校に通う子どもたちと出会った時、まさに「生き方」が自分とは違うと感じましたね。芸能活動をしている子もいたし、プロスポーツや音楽家を目指している子、何らかの資格を取るために通信制高校を選んでいる子もいて。
“特別な才能を開花させたい” というよりは、 “自分の好きなことや得意なものを伸ばしていきたい” と考えている子が多かったように思います。自分の「好き」や「得意」を今後の人生に活かせるかどうかを模索しているわけです。
中島:高校生が、自分で自分の人生を切り開いていこうとしている。すごいな、と思いました。自分は、高校生の頃にそんな意識を持っていなかったので。ところが、先ほども話したように、通信制高校は社会的に少し下に見られるわけですよ。そのせいで、子どもたちの自己肯定感がすごく低くなってしまう。当時、卒業後に学校名を胸を張って言える子はいませんでした。
「通信制高校卒業」と履歴書に書いてあると、「何かあったの?」「普通じゃないよね」と見られることが多い。だから、社会に出ても活躍する場を与えてもらえない。せっかく自分で人生を切り開いていこうと思っている高校生を受け入れる度量が、当時の社会にはなかったんです。なんとかしたい、と思いました。その時に出会ったのが、株式会社ドワンゴの役員だったんです。
中島:当時ドワンゴの社長を務める川上さんに、「通信制高校の社会の位置付けが低い。何とかこの構図を逆転させたい」と話をしました。すると、川上さんが「自分たちの得意分野だ」と言ってくれたんです。
ドワンゴは、ニコニコ動画のサービスを配信していますよね。あれは、オタクの子どもから大人までが集えるコミュニティになっています。「オタク」も、それまではどちらかというと社会的弱者のような立ち位置で、ちょっと蔑まれていたんですよね。ところが、ニコニコ動画の中では、オタクの子どもや大人たちが一躍スターになるんです。
平林:舞台さえあれば、自分の「好き」や「得意」を活かして才能を開花させられるんですね。
中島:そうなんです。ドワンゴの川上さんも角川さんも、「僕たちはオタクに市民権を与えた」と言われていて。だから「通信制高校の子どもたちに対する社会の認識もきっと変えられる」と。それを聞いて、この人たちと高校を作りたいと思いました。
「ニコニコ動画を高校にしませんか?」と提案したら、「面白い。そんなプロジェクトこそ、ドワンゴやKADOKAWAがやる意義がある。自分たちだからこそできる。やりましょう!」と言ってくれたんです。そうしてできたのが、現在のN高校というわけです。
平林:最高です。素晴らしい。
平林:僕はずっと、中島さんは教育畑だと思っていたんですよ。でも通信制高校がスタートだったんですね。その前は、何をされていたんでしょうか。
中島:実は、教育業界とはまったく関係のない仕事をしていました。大学を卒業して、都内の広告代理店に入社したんです。
平林:へえ!意外です。
中島:時代はまさにバブル絶頂期で、仕事の大半が遊びのようなものでした。営業=接待で、当時流行りだったディスコクラブにクライアントを連れて行くのが仕事だったんです。
平林:人が育つ前に、仕事が世に溢れている時代ですね。
中島:そうですね。でもバブルがはじけて、それまで仕事らしい仕事を教わらないまま、接待の経験しかなかった私は、「全く仕事ができない広告代理店の営業マン」になってしまった。
これには困りました。どうしようかと悩んでいたら、当時の会社の社長に「企画書をとにかく写せ」と言われたんです。あの頃はデータのない時代だったので、言われるまま、手書きで紙の企画書を1日に50枚〜100枚、毎日ひたすら写していました。
平林:毎日企画書を写して、そこからどうなったんですか。
中島:それが、写しているうちに「企画書の書き方」がわかるようになったんですよ。企画書は、クライアントの背景からマーケティングをして、いろいろなアイディアを出し合って作られます。その道筋がわかるようになると、プランニングって面白いなと感じるようになりました。
結果的に広告代理店は退職しましたが、辞める際に社長に言われたんです。「プランニングの仕事をしろ。ずっと企画書を書いていたから、もう自分で書けるはずだ」と。それで、地元である関西のプランニング会社を紹介してもらい、プランナーとして働きはじめました。
平林:その代表、めちゃくちゃ面倒見のいい人ですね。
中島:すごくユニークな人でしたね。関西に帰った頃、ちょうど大阪では「花の万博(国際花と緑の博覧会)」が開催されていて。加えて、関西国際空港の開港もあって、ミニバブルのような状態だったんです。まさにプランナーが求められる時代で、紹介されたプランニング会社で即戦力として働くことができました。社長の言った通り、毎日企画書を写すことで本当にプランニング力が身についていたんですよね。
平林:その後は、どうなったんですか。
中島:そこから独立したんですよ。調子に乗ったんです。(笑)
自分でプランニング会社を立ち上げて、経営をはじめました。そのときのクライアントの一人が、教育業界の人だったんです。塾や高校、大学、専門学校、海外の大学まで、幅広い教育機関に携わっている会社が、通信制高校の立ち上げにも関わっていました。
先ほども言いましたが、通信制高校は元々は勤労学生のための制度。でも、そんな通信制高校を「日本中にいる不登校の子どもたちが学べる高校にするんだ」と、その会社の理事長が言われたんです。「手伝ってくれんか」と言われて「喜んで」と答えると、「外からじゃなく、中に入れ」と。
「これから不登校の子どもたちはどんどん増える。その子どもたちが社会に出ていく道を作るための高校なんだ」と熱弁されました。その言葉と熱意に感化されたわけです。これはやるしかないって。そこから、教育業界の住人になりましたね。
平林:広告業界から教育業界へ足を踏み入れた時、「自分がやるべきことはこれだ!」と思った一番の理由はなんだったんでしょうか。
中島:正直なところ、最初は成り行きでした。でも、通信制高校に通う子どもたちの中に、興味のあるものと徹底的に向き合う子がいて。その自分自身で切り開いていく姿に心を動かされましたね。「この子どもたち、何とかしようとしているな」と思ったんです。
中島:日常って成り行きでどうにかしようと思えば、多少できるわけですよ。面白くないと思いながらも普通に高校に通っていれば、卒業して進学するなり働くなりして生きていくことができる。でも、彼らはそうじゃない。「(普通高校に)行かないこと」を「選んでいる」わけです。通信制高校を選び、自分の生き方を探そうとしている。それが私にとっては衝撃的やったんです。
僕の人生は、ずっと成り行き任せでした。社会に出た当時がバブルというのもあって、時代の波にポンと乗って、ふわふわ生きて。自分で自分の人生を切り開いてなんかいなかった。
ところが、彼らは切り開いている。社会から「学校に行っていない」と指をさされながらも、なんとかしようと思って、切磋琢磨しながら生きているわけです。その姿を見て、今までの自分の人生を振り返りました。
平林:こんなに若くして、自分の人生を自分で選んでいる。そうやって選択している人たちがいるのに、自分はどうなんだろう、と振り返ったんですね。
中島:まさに、そうです。しかし、そうはいっても社会が彼らを拒む時代でした。スポーツ選手や芸能人、アーティストのように、特別な才能がない限りは「通信制高校出身の子ども」として見られる。頑張って人生を切り開いていこうと思っている子どもたちが認められる社会を作りたい、その取り組みに加担したいと思いはじめました。
平林:その瞬間に、一気に外側に目が向いたんですね。
中島:そうですね。社会課題をこの目で見た時に、社会課題の中に埋没している子どもたちを世に出せるような社会作りがしたい、それだったらできるんじゃないかと思ったんです。前職でプランニングやプロデュースを学んだ経験が、ここで活かせるのでは、と考えました。
子どもたちの未来の選択肢を増やすために奮闘されている中島さんの後編記事は2023年6月7日20時配信予定!当事者が持ち得る力や、理想を実現するための心持ちについて迫ります。後編記事『「自分がやれるか」は重要ではない。当事者意識を育み続ける中島武の生き方』もお楽しみに!
Editor's Note
プランニング業界から、教育業界への転身。中島さんに大きな転機をもたらしたのは、定時制高校に通う子どもたちの存在でした。人生を切り開こうと足掻く子どもたちの努力が、報われる社会になってほしい。そんな想いを原動力として動き続ける中島さんのような大人が、もっともっと増えてほしいと思います。同時に、自分自身もそういう大人でありたいと強く感じた対談でした。
MINORI YACHIYO
八千代 みのり