YAMANASHI
山梨
「富士山にもっとも近い街」として知られる富士吉田市。その中心部を通る通称「本町通り」は、商店街の向こうに富士山がそびえる絶景スポットとして、国内外からの注目を集めています。
連日観光客でにぎわう本町通りに、カフェ「富士茶庵」がオープンしたのは2023年4月のこと。
富士茶庵の店長・井出絢子さんは結婚を機に、17年前から富士吉田市で暮らすようになりました。移住当初は今では考えられないくらい静かな街だったといいます。
家業のルーツとご縁がつながって生まれたお店を経営しながら地域を盛り上げたいと奮闘する井出さんは、富士茶庵という場所を通じてどのような未来を描いているのでしょうか。
1階は山梨銘菓の信玄餅などを販売するショップ「富士吉田金精軒」、2階がカフェの「富士茶庵」。元々は明治16年創業の米穀店「井出商店」というちょっと変わったルーツを持っています。
金精軒は甲州街道の台ケ原宿(山梨県北杜市)で明治35年からはじまった和菓子店です。井出さんの夫の実家である井出商店とは縁戚というつながりがありました。
「実は夫の母の実家が台ケ原の金精軒なんです。先代からの親戚という関係ですね。小売やカフェを始める前、井出商店ではホテルや道の駅などに金精軒の信玄餅の卸売りをしていました。並行して、米屋もやり、富士吉田はうどん屋さんがいっぱいあるので粉を卸したりもしていて。もっと遡ると、富士吉田は織物の街なので、大阪まで糸を買いつけに行って織物を作っている人たちに売り歩いていたそうです」(井出さん)
富士吉田といえば富士山の豊富な伏流水があり、1000年以上も続く織物の街。光沢のある色鮮やかな座布団は地元の織物会社に頼んで作ってもらい、十二支が柄のモチーフになっているのだとか。井出さんは「ぜひご自分の干支を探してみてください」と笑顔を見せます。
和菓子屋とカフェへのリニューアルに伴い、お米は扱わないことになりました。でも、これまで米穀店を営んでいたことを何かの形で残しておきたいという気持ちがあったと言います。
「井出商店はお米のセレクトや知見という強みを持っています。それを活かせるものを考えました。私自身がおにぎりがすごく好きだったので、朝7時から9時まで限定の『おにぎりモーニング』を始めました」(井出さん)
「このあたりではチェーン店はあるものの、個人店で朝食を食べられるところがほとんどなかったんです。最近はインバウンドで民泊を利用しているお客様が朝食を食べる場所がなくて困っているというお話も聞いていたので、朝食を求めて来てくれる人が多いのではないかと考えました」(井出さん)
実際におにぎりモーニングの提供を始めたところ、予想を上回る反響があったといいます。井出さんは、その理由を「山梨県にも美味しいお米はありますが、私のこだわりもあって、これまで井出商店で扱っていた新潟の魚沼産コシヒカリを使っています」と語ります。
何より、目の前には雄大な富士山が迫力いっぱいに広がっています。これほどまでの「特等席」で朝食を食べられる場所はなかなかありません。
「これまでのお米屋さんの家業だったり、富士山が見える立地だったり、いろいろなラッキーが重なってありがたいですね。逆にそういうレールが敷かれていたのかなという感じで(笑)
この建物は、元々通りに面した形で建っていたんですが、富士山に窓が平行になるように今回建て替えをしました。それも、長年ここで井出商店の商売を家族が営んでいたおかげなので、元々あったというのが本当にありがたいですね。強みになるものがたくさんあったので、これはもうやるしかない!と」(井出さん)
事業転換を考え始めた頃、思いがけない追い風も吹き始めました。
「元々持っていたものだけじゃなくて、本町通りが流行って海外からもたくさんお客様が来てくれるようになったのも運がよかったんです。本当にここ1、2年くらいでかなり人が増えましたね。これは予想外のラッキーでした」(井出さん)
お店が軌道に乗るには自慢のおいしいお米と富士山の絶景だけではなく、そこでいきいきと働く人の存在も重要です。「富士茶庵というお店ができるには、一緒に働く人たちがいなければここまでできなかった。本当にありがたい」と井出さんは目を細めます。
「スタッフもみんなどんどん提案してくれるので本当に助かっているんです。オープニングスタッフを募集し、社長と私の他に7人います。1階のショップ、2階のカフェ、さらには配達といろんな仕事があるのでそれくらいの人数がいないと回せなくて。
オープンするのってすごくパワーを使うことなので、言われるのを待っているだけじゃなくて、自分から動いてくれるメンバーで助かったという面が大きいですね」(井出さん)
絶景の富士山に自信を持ってセレクトしたお米、そして信玄餅をはじめとした自慢の和菓子。家業が培ってきた強みを生かして求められているものは何かを見つめ続けた結果、現在の富士茶庵ができあがっていきました。すでに何度も足を運ぶお客さんとの出会いも広がってきたといいます。
「インスタグラムぐらいしか発信していない中で、たくさんの方に来ていただけているのはすごくありがたいと思っています。本当にお客様が新たなお客様を連れてきてくださるんだなというのを感じて驚いているくらい。今日は関東の方から3回目のリピーターさんがご来店してくださって」(井出さん)
片道2時間以上かかる場所から1年に3回も訪れているお客様もいるのだとか。遠出するときにまずは富士茶庵に寄って朝食を食べてから、さらに違う場所へ行くというお客さんも増えているそう。
「お客様は元々米屋を営んでいたというルーツはご存じない方がほとんどではないでしょうか。一応インスタグラムに書いてはいますけど。Googleなどで『富士吉田 朝ごはん』といったキーワードで探して来られた方が多いと思います。
ある程度はニーズを想像しながら進めてきましたが、『本当にそうだったんだ』と答え合わせをしている感じです」(井出さん)
業態転換にあたっては1年ほどかけて構想を練り、オープンしてからは家族とスタッフが一丸となってお店を切り盛りしてきたとのこと。カフェや小売事業はこれが初めてという井出さんは、井出商店の仕事に携わる前は20年ほど美容師をやっていたそうです。
「4年ほど前から井出商店の仕事に関わりはじめました。ずっと美容師をやってきて、お土産や卸は全く知らない世界だったので、やりながら覚えていって。家族で協力したり、取引先の方にいろいろお聞きしながらやっていくうちに、ありがたいことに売上も伸びていって。2年ほど前に補助金のお話もいただき、このお店の構想が持ち上がりました」(井出さん)
家族みんなにとってもチャレンジングな業態転換。長年続いてきた井出商店の変化には地元の方からどんな反応があったのでしょうか。
「観光客の方も多いですが、地元の方もたくさん来てくださっています。『来たよー!』って親戚の家に来るような感じで(笑)
社長はここが地元ですし、親の代から知っているので、お店が変わっても気さくな感じで来てくださいますね。地元の繋がりも強くて、同級生とわかればもう友達みたいな。お店に入るとスタッフもフレンドリーですしね」(井出さん)
井出さん自身も、近所のおじいちゃんやおばあちゃんがふらっとお茶を飲みに来てくれるような場所になるといいなと思っていたそう。「あのお店は◯◯君の家だよね」と言われるほど、顔が見える関係性が育まれたこの土地で、思いがけない動きが出てきたそうです。
「実は、今度近くに新しいおにぎり屋さんができるらしいんですよ。偶然かもしれないですが、ここでお店を作ろうという皆さんにとってのきっかけになれていたとしたらすごく嬉しいですね。
数年前まではシャッターが下りているお店が多くて静かな通りでした。でも、最近では若い世代の人も東京から来てお店を開いていたりして、富士吉田がにぎわっていくのがすごく面白いなと思っています」(井出さん)
「経営をしているから周りのお店がなくなると自分達も困るので」と言いながらも、井出さんは新たなお店が生まれて人と出会い、地域が変化していくことに純粋にわくわくしている様子。
「結婚して富士吉田に来た当初は、まさかこんな未来になるとは思ってもみなかったです。自分でも予想していなかったから本当に驚きですけど、もうね、面白いです。いろんな人に出会えたというのがこの仕事をしていて一番嬉しいことだったかもしれないですね」(井出さん)
「そんなに大それたことはできないけれど」と前置きしながら、これから目指す未来のことをこう語ります。。
「ひとつの夢としては、富士吉田に来たら必ず寄ろうというお店のひとつになりたいですよね。いろんな人が集まれる場所になれば面白いかなと思っていますし、誰かの楽しみの場所になればいいですね。そういった楽しいことのお手伝いができればと思います」(井出さん)
Editor's Note
富士茶庵では消費期限30分とされている夏季限定の「水信玄餅」をはじめ、季節ごとに和菓子のラインナップが変わります。取材時は春の訪れを感じされる「大吟醸さくら粕てら」などの限定味も登場。
2階のカフェは畳敷きで靴を脱ぐスタイルなので、富士吉田の風景を眺めながらゆったりと流れる時間をぜひ満喫してください。
YUKIKO ITO
イトウユキコ