SHIZUOKA
静岡
「地方へ帰る」
進学や就職で一度大都市へ出た人にとって、それは大きな選択かもしれません。
今まで築き上げてきたキャリアを捨てることになるのでは。
帰ることで、世界や視野が狭まるのでは。
そんな迷いを持っている人もいるのではないでしょうか。
今回お話を伺ったのは、創業106年の老舗傘屋「藤田屋」4代目の藤田大悟(ふじただいご)さん。
藤田さんはかつて家業への不安から、地元・静岡を離れて関東の大学へ進学し、県外の大手企業に就職した過去があります。
大都市から地方へ。迷いつつも家業を継いでから1年。
今回は、藤田さんに現在の想いや、突き動かす原動力について伺いました。
静岡市葵区。徳川城址、駿府(すんぷ)城公園から徒歩約5分。閑静な住宅街の一角にお店を構えるのは、大正8年創業の「藤田屋」です。
自社・他社ブランド傘の卸売・販売と、ハンドメイド傘の製造販売をメインに事業を展開する藤田屋。
豊富な品揃えだけでなく、来店者の要望に合った商品を紹介する「提案力」にも定評があるお店です。こだわりの1本を選べるということで、芸能界にも藤田屋のファンがいるのだとか。
取材中も、藤田さんが次々と傘を手に取り、特徴を説明してくれました。
一通り店舗内を一周し、「まだまだいろいろありますが、傘の細かい話を始めるとさらに1時間以上かかるので、ここまでにしておきます」と笑う藤田さん。その人生の中には、常に家業がありました。
「実家が店舗の上にあるので、子どものころから暇を見つけてはお店へ遊びに行っていました。店長である母親と店舗で話した記憶はあまりないのですが、スタッフにはよく遊んでもらっていましたね。
レジ前に置いた椅子の上に立って、レジ打ちのマネをしたり、店員ごっこをしたり(笑)。電話を取れるようになってからは、『今〇〇さんはいません』といった具合に、スタッフからかかってくる内線の受け答えもしていました。
そんなふうに過ごしてきたので、私にとっては当時から『家業=家』という感覚がありました」
温かな記憶とともに語られるエピソード。
ですがその一方で、「家業に自信が持てない」という悩みも、長年抱えていたのだそう。
「幼少期から、周りの友人に“傘屋なんて古臭い”と言われたり、“傘って儲かるの?”といったネガティブな空気を感じ取ったりして、『家業を継いでもうまくいかないんじゃないか』という感覚が染み付いてしまったんです。
そんな経験から地元を離れようと思うようになり、高校では勉強を頑張って、関東の国立大学に進学しました。『継がないのであれば、それ相応のキャリアを積まなければ』と思っていたので、とにかく必死でした」
このキャリアプランを描いた時点で、藤田さんの中で家業を継ぐ可能性は「10%ぐらい」。
「ほとんど継ぐ気はありませんでしたが、それでもゼロではなかったのでしょうね。理系学部は避けて、事業に役立ちそうな経営学部を選びましたし、就職先はモノづくりに携われる職種を選びたいという強い意志もありました」
心のどこかで家業のことを思いつつ…。
藤田さんは大学進学を機に、13年もの間、静岡を離れることになります。
大学卒業後、愛知県の大手自動車系サプライヤーに就職した藤田さん。
新規事業の推進を行う花形の部署で、新しいプロジェクトの構想や実行計画の策定などを担当します。
着実に経験を積み、充実した日々を送ること8年。
30歳を迎えたころ、ご両親に呼び出された藤田さんはこう告げられます。
「大悟が継がなければ、店も会社もたたむ」
「両親の言葉を聞いたとき、それは許しがたい、と思いました。事業をたたむということは、私にとって家がなくなるようなものです。
小さいころから慣れ親しんできた景色がなくなるのは耐えられない。親族にも、先祖にも、今まで支えてくださった方にも申し訳がたたない。ここで藤田屋を終わらせるわけにはいかないと強く感じました」
しかし当時の藤田さんは同じ会社に長年勤め、転職の経験もありませんでした。いくら地元とはいえ、新しいキャリアをゼロから始めることには、大きな葛藤があったといいます。
「地元の中小企業に戻ると、世界が閉じられるんじゃないか、スキルダウンしてしまうんじゃないかと不安でした。これまで一緒にキャリアを積み上げてきた、会社の同僚に置いていかれてしまうような感覚もありました。
一方で、自分の裁量が大きい家業に魅力を感じたのも事実です。だからこそ、自分が藤田屋にどう貢献できるかは時間をかけて考えましたね。
事業の拡大や変革の余地はあるのか悩んで、自分なりに『こうすれば、事業を推進できるんじゃないか』と具体的に予想できたところで、地元に戻り、家業を継ぐという行動に移すことができました」
静岡に戻ってきてから2ヶ月で、新規事業アイデアを競うピッチコンテスト『アトツギ甲子園』でプレゼンテーション。
地元のマーケティングサロンにも参加し、今はデザインコンテストにもエントリー中。
後継ぎとして新たな挑戦に余念がない藤田さんですが、自身の性格は「実は内向的」と分析します。
「前職ではプレゼンをする機会はありましたが、積極的に外部コミュニティに参加していたわけではありませんでした。興味を持った人に積極的に話しかけにいったり人脈を作ったりしていたわけでもないんです」
藤田さんを突き動かすものは、「強烈な危機感」だといいます。
「100年続いてきた家業を、今後さらに100年続ける。そう考えたときに、今の事業形態のままでは50年続けられるかも怪しいな、と感じたんです。それなら、今この瞬間から変えていかないと手遅れになってしまう。すぐに手を付けなければいけないという危機感がモチベーションの源になりました。
正直言って、この危機感がなければもう少し内向的なままだったかもしれません。人からも『なんでそんなに積極的に頑張れるの?』などと言われます。でも、私としては、なりふり構っていられないという気持ちなんです。とにかく必死で走り続けるしかないなと。
それに、実際に一歩踏み出してみると意外と全部楽しいんですよね。だからチャレンジし続けられているというのもあります」
静岡に戻って約1年。
家族はもちろん、店舗スタッフや得意先にも温かく迎えられた藤田さん。みんなから小さいころと同じように「ダイちゃん」と呼ばれているのだそう。
「最初の1ヶ月は精神的につらいと感じた時期もあったのですが、今振り返ってみれば、そんな苦労も全部良い経験になったな、という感想です。本当に、帰る前は何をあんなに恐れてたんだろうと」
今そう感じている理由を尋ねてみると、藤田さんは「懸念していたことが払拭されたので」と笑みを見せました。
「地元に帰ってきて視野が狭まるかと思いきや、むしろ今まで知らなかった業界に身を置いたことで世界が広がりました。
イベントに出たり人との繋がりを作ったり、いろいろ努力をする中で、スキルダウンどころかめきめき力がつく感覚があります。それに、頑張っているとみなさんが応援してくれるので、孤独を感じることもないんです。
大都市から地方に戻って、キャリアが頓挫するなんてことはない。これだけは言い切れると思っています」
今後、藤田屋が目指すのは「傘に愛着が持てるような世界」をつくることです。「傘=使い捨て」のイメージを払拭し、「自分らしさを表現するアイテム」に変えていきたいというビジョンを掲げています。
「これから会社としてやっていきたいことは大きく2つですね。まず1つ目は、新ブランド開発に力を入れること。当社の傘が持つ情緒的な価値を訴求ポイントと捉え、安くて機能的な傘とは別の切り口で、価値観やライフスタイルから選択していただけるような傘をご提案できるように頑張っています。
もう1つは、傘作りの工房を復活させること。今は傘職人が母1人になってしまいましたが、もともと店舗の2階は工房になっていて、祖父たちがそこで傘を作っていました。ここを盛り上げていくことによって、静岡県の伝統工芸を世に発信することにつながればと思っています」
力強く語る藤田さんの瞳には、本気で家業を、そして地域を盛り上げたいという力が宿っていました。そこには、かつての「家業に自信が持てない」姿は微塵も感じられません。
「危機感」という一見消極的な原動力をポジティブなパワーに変えて、前を向くひたむきな姿勢を感じました。
誰だって新しい世界へ一歩踏み出すのは怖いもの。
ですが、いざその場所へ身を置いてみると、意外と楽しめたり、視野が広がったりすることもあるのだと思います。
アナタには、守るべき大切な場所はありますか?
その場所を守るために、何をしますか?
心の声を聞いて、一歩踏み出す。
その先には、思っている以上に温かで、充実した世界が待っているかもしれません。
Editor's Note
慣れ親しんだ今の藤田屋を守るだけではなく、工房を復活させ、過去の藤田屋の姿を取り戻す。その気概には、事業に責任を持つ跡継ぎとしての熱い想いを感じました。店舗の片隅にぽつんと鎮座していた、日本国内ではもう手に入らないという「傘専用ミシン」。いつかそれが部屋中にずらりと並ぶ光景を心に浮かべながら、取材を終えました。
AYAKO SEGUCHI
瀬口 恵子