移住
※本記事はLOCAL LETTERが開講する『ローカルライター養成講座』を通じて、講座受講生が執筆した記事となります。
どこで誰と暮らし、何をするのか。自分の生き方を自由に選択できるようになった現代、十人十色の生き方がある中で、地方で暮らすという選択が身近になっている。住み慣れた場所を離れ、地方で暮らしたいと思う人は増えているのではないだろうか。
今回取材したのは、地元大阪の大学を卒業後、現在北海道東川町で役場職員として働く𠮷里演子さん。
彼女が暮らす東川町は北海道の中心に位置する、大雪山連峰・旭岳の麓に広がる町だ。1984年に開基90年を迎えたこの町は次世代の町づくりを見据え、どこを切り取っても美しい景色と、その当時比較的新しい文化であった “写真” を活かして町おこしをしていこうと1985年「写真の町」を掲げた。それ以来様々な取組みを行ってきた東川町は、着実に移住者の数を増やし、現在では人口の約50%を移住者が占めるという。
地方移住という選択が今よりメジャーになる前から、生まれ育った大阪を離れ東川町に移り住む決断をした𠮷里さんには、どんなストーリーがあるのだろうか。そして彼女が移住を決心した北海道東川町とはどんな町なのか。それを知るため、彼女に話を伺った。
「高校の先生に言われた『東川町に行ったら人生変わるよ』が、まさか現実になるとは思いませんでした」そう笑いながら話す𠮷里さんと、東川町との出会いは彼女が高校生の時。母校の写真部で毎年参加していた写真甲子園(全国高等学校写真選手権大会)の本戦で訪れたことがきっかけだった。
「写真甲子園は、全国で写真に取り組む高校生の憧れの大会です。私の母校は毎年大会に参加していて、本戦に出場できることは日々一生懸命、写真に取り組んだご褒美のようなものでした。ただその時は北海道に来るのが初めてだったこともあって、北海道楽しい!という気持ちが勝っていましたね(笑)」と語りながら、当時の思い出を振り返る。
その後、大学で写真学科に進学した𠮷里さんは、再び写真甲子園のボランティアスタッフとして東川町の土を踏むことになる。
そして今度は参加者ではなく、スタッフとして関わる中で、大会運営の裏側やそれを支える東川町の大人達の熱い姿を目の当たりにした。
「大会期間中は、大人たちが毎日目の下にクマをつくってボロボロになりながらも、高校生たちにとって最高の作品づくりの環境を整えるため、毎日夜遅くまで働いていました。高校生だった時の自分は『こんなにもたくさんの熱意溢れる大人たちに支えられて、作品づくりができていたんだ』と知って、心の底から感謝の気持ちが沸きました。そこから写真甲子園が大好きになり、大学4年間は毎年ボランティアとして関わりました」(𠮷里さん)
参加者という立場から大会運営を支えるスタッフとして、東川町に関わり続けることになった𠮷里さんは、大学3年生の時に“あること”に気づいたという。
「ボランティアスタッフとして、東川の仲間になっているつもりだったんですが、そうではなかったんですよね。町の人たちにとっては、ボランティアスタッフも外から来たお客さんでしかなくて。『どうすれば本当の意味で仲間になれるのか』と考えたときに、やっぱりここに住むしかないんだと思いました」(𠮷里さん)
「移住したい」という思いを抱き始めた𠮷里さんは、写真甲子園が開催される夏以外の季節もこの町で過ごしてみようと、大学の卒業制作を東川町で行うことに決めた。この滞在こそが、𠮷里さんがこれまでとは違った角度で、東川町の魅力に気づく大きなきっかけになった。
「卒業制作を進める中で、町の方々に『東川町はどんな町ですか?』とインタビューして回ったんです。『東川は田舎だし、何もない町だよ』と皆さん口を揃えていうんですが、必ずその後に、“でもね”と言葉を続けるんです。『水がきれいでトマトやお米がおいしいんだよ』とか、『春先の夕日に照らされる旭岳がピンク色に染まって、その美しさに思わず作業の手を止めて眺めちゃうんだよ』とか」(𠮷里さん)
それは外部に発信するような広報的な表現ではなく、この町でリアルに暮らす方々が表現する東川の魅力で、𠮷里さんにとっては、とても印象的な出来事だった。
「地元である大阪のことを聞かれたとき、“人情の街”とかありきたりなことしか言えませんでした。でも東川には、自分の町を自分の言葉で表現できる人たちが住んでいるんだなと思って。正直それまでは、景色が美しくて食べ物がおいしい北海道の町の1つぐらいの印象で、町に対する思い入れよりも、写真甲子園が好きという気持ちが強かったんですが、卒業制作を通して町そのものに強く惹かれましたね」(𠮷里さん)
この町に住んでみたらどんなことが起こるのだろう?とワクワクして、ここに住もうと決心したんです。𠮷里 演子 北海道東川町
東川で暮らすためには仕事が必要だったが、特にアテがあるわけではなかった𠮷里さん。ただ東川に住みたい!という気持ちを当時の写真の町課の課長に伝え続けていく。
「移住への思いを伝え続けていたら、東川町文化ギャラリーで1年間の臨時職員を募集しているというお話をいただきました。町に寄贈される沢山の写真をプロの方々と収蔵する仕事で、大学で取得した学芸員の資格を活かしながら働き始めました」(𠮷里さん)
写真甲子園が開催される夏の1週間を東川で過ごしたいという気持ちが、春夏秋冬をこの町で過ごしたいと思うまでに大きくなり、臨時職員としての1年間を足がかりにして、移住を達成した𠮷里さん。
以来12年間、写真の町課職員として写真を軸に様々な取組みを行っており、写真甲子園もその1つだ。開催期間中は、高校生や大学生の時に目にした、“ボロボロの職員”の1人になって運営を行っているという。
「開催前や開催期間中はしんどくて、何度も『辞めたい』と思います。でも終わった後、参加者や、関係者の方々が帰るときに感謝の言葉や、また来たいという声を聞くと、『やってよかったな』と大きなやりがいを感じて満たされるんです。そして次の日には、気づけばその年の反省点や来年にやりたいことを考えています」(𠮷里さん)
𠮷里さんは “楽しい” と “しんどい” が共存する「中毒性のある仕事」と表現する。
しんどい ことが多い中でも続けられている理由として、やりがいの他に、住民の方々の存在も大きいのだそう。住民の方々は、有志のメンバーで構成された企画委員をつくり、運営の協力だけでなく企画の提案もしてくれるんだとか。
「各々の仕事や生活がありながら、手弁当で取組みに関わっていただいていて。力をもらいますね」(𠮷里さん)
職員も住民の方々もなぜそこまで主体的に町へ関わることができるのだろうか。そこに共通しているのは、純粋に “町が好き” という想いであり、その想いが原動力となり、様々な取組みに繋がっていると𠮷里さんは語る。
「この町が大好きで、この町の将来が楽しみで、まるで自分ごとのように町のことを想い行動する人が多いんです。職員として働く中では、年次に関係なく意見を出し合い、個々を尊重する風通しの良い文化があると感じます。これまで町を想い自発的に行動を起こしてきた人たちの想いが紡がれ、挑戦に対して積極的で寛容な風土や文化が醸成されてきたのではないかと感じます」(𠮷里さん)
また、一人の住民として、移住の前後で感じる東川町の魅力は大きく変わらないと𠮷里さんは話す。
「移住前もずっと感じていたのですが、町の人たちはすぐに家に上げてくれて、フランクに話をしてくれるんです(笑)。町の外から来る人たちに対してとてもオープンな人たち。この町には、色んな考えや思いを持つ人をお互いに認め合い、受け入れられる人が多いと感じます。
初対面から人を好意的に見て興味を持って接する人たちが多くて、『この人たちと何かやり続けたら面白いことが起こるのではないか』そんな周りからのありがたい期待が取り組みを続けられており、活動の輪を広げる力になっていると思います」(𠮷里さん)
最後に、写真の町で写真に関わる者としてこれからやりたいことを尋ねると「写真を身近に感じてもらえるような取り組み」という答えが返ってきた。
「今の時代、写真はスマートフォンなどでいつでも誰でも撮れるものですが、作品としての写真はまだまだハードルが高いと感じる人が少なくないと思います。
写真の良いところはその時の想いを残して、振り返りができること。将来写真を見ながら撮った瞬間を振り返り、撮って良かったなと思える瞬間をみんなで共有したい。そしてその瞬間を、“写真の町”の歴史と共に重ねていきたいです」(𠮷里さん)
𠮷里さんを突き動かし、東川町へと導いた動機は、“東川町が好き”という気持ちと “写真” というシンプルなものだ。
今居る場所ではないどこかに移り住み、新しく何かを始めるには、大義が必要なのではないかと、踏み出す一歩を怯んでしまう人も少なくないと思う。しかし𠮷里さんのお話から、シンプルな動機から様々な活動や取組みに繋がり、それが広がりを持っていくのだということを教えていただいた。
そして東川町は、外の人やものに対してオープンな風土があり、人が好きで受容力の高い人々が暮らす町である。色々な迷いを抱えながらも“やってみたい”を形にしようと飛び込む人にはとっておきの町だ。
是非1度東川町を訪れ、あなたの目で町を見て欲しい。そしてそこに暮らす方々と話をしてみてほしい。あなたの “やってみたい” に耳を傾け、後押ししてくれる人がいる町なのだから。
Editor's Note
東川町には外に対してオープンな方々が多いという魅力。𠮷里さんの口から語られる町の魅力と、𠮷里さんを初め、役場職員や住民の方など東川町で出会った方々と話した中で私が感じた魅力には乖離がないと感じました。また、オープンではあるけれど必要以上に干渉しない空気も同時に感じ、様々なバックグラウンドを持つ人でも馴染みやすく、長く暮らしていきたくなる町なのだと思います。
SACHIO NISHIYAMA
西山 祥央