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LOCAL LETTER

スーパースターはいない。泥臭く成功体験を追求する、小池克典の”生き方”

NOV. 08

JAPAN

拝啓、挑戦したい気持ちはあれど、一歩踏み出せずにいるアナタへ

「この人の人生が気になる!」そんな旬なゲストと、LOCAL LETTERプロデューサー平林和樹が対談する企画『生き方 - 人生に刺激を与える対談 - 』。

第15回目のゲストは、多拠点コリビングサービス「LivingAnywhere Commons(以降LAC)」の事業立ち上げ責任者や、「LIFULL ArchiTech(ライフルアーキテック)」の代表を務めていた小池克典さんです。

しかし、今年のはじめに小池さんの病気が発覚。その後、新たな生き方を模索する中で、これまでとは違う領域に足を踏み入れていきます。

そんな小池さんが語ったのは、自身のキャリア変容や仕事にかける想いについて。

自分自身の人生を精一杯生き続けているアナタに注ぐ、一匙の刺激をお届けします。

心臓の病が発覚。LIFULLでの事業立ち上げ責任者、子会社代表からの転機

平林:小池さんとは以前からご縁があり、株式会社WHEREを通して長年ご一緒している間柄で、地域経済サミットの際にも尽力していただきました。でも、まさにその地域経済サミットの場で、小池さんから「実は俺、手術することになった」とカミングアウトされて

心配していましたが、無事に手術を終えられて元気な姿を見られてホッとしています。今日はお仕事のお話以外にも、ご病気の件も踏まえてお話を伺えればと思っています。よろしくお願いします。

小池:よろしくお願いします。小池克典です。今年で40歳になります。株式会社LIFULLで、主にシリアルイントレプレナーという形でさまざまな事業をつくっていました。

代表的なものでいうと、多拠点コリビングサービス「LAC」の事業立ち上げ責任者や、名古屋工業大学との産学連携事業を行う子会社「LIFULL ArchiTech(ライフルアーキテック)」の代表を担っていました。

幸いなことに事業は広がりを見せていたのですが、冒頭で平林さんからお話があった通り、実は心臓の病気が発覚しまして。結論からお伝えすると、今年の7月に心臓弁置換という手術をしました。

そのため、4月の段階で先ほどお伝えした事業の責任者の任を下りています。今「何者か」と問われると何者でもないんですよね。

小池 克典 (Katsunori Koike)氏  / 1983年栃木県生まれ。株式会社LIFULL ArchiTech 代表取締役社長、一般社団法人Living Anywhere 副事務局長も務めるも、心臓の病を発症しすべての任を退く。現在はスタートアップの支援事業プロダクトの開発に従事。
小池 克典 (Katsunori Koike)氏 / 1983年栃木県生まれ。株式会社LIFULL ArchiTech 代表取締役社長、一般社団法人Living Anywhere 副事務局長も務めるも、心臓の病を発症しすべての任を退く。現在はスタートアップの支援事業プロダクトの開発に従事。

平林:小池さんのことはこれまでのLOCAL LETTERの記事にも出ているので、未読の方はそちらもぜひ読んでほしいのですが、バーテンのお仕事からはじまるキャリア遍歴も興味深いです。LIFULLに入社した当時も、営業部からスタートされたんですよね。

小池:そうです。一営業マンからスタートしました。

平林:そこから営業成績を上げて新規事業を開拓していくストーリーは、ありがちなようでいて実際には漫画の中ぐらいでしか聞いたことがなくて。そこに至るまでに、小池さんの中でどのような分岐点や決断があったのですか。

平林 和樹(Kazuki Hirabayashi)株式会社WHERE 代表取締役、内閣府地域活性化伝道師、ふじよしだ定住促進センター理事 / ヤフー株式会社、カナダ留学、株式会社 CRAZY を経て、株式会社WHERE創業。約2万人の会員を持つ地域コミュニティメディア「LOCAL LETTER」、産学官民の起業家70名以上が登壇する地域経済サミット「SHARE by WHERE」など地域、業界を超えた共創を創出。長野県根羽村で一棟貸し宿を立上げ事業譲渡など独自の事業作りで活動中。
平林 和樹(Kazuki Hirabayashi)株式会社WHERE 代表取締役、内閣府地域活性化伝道師、ふじよしだ定住促進センター理事 / ヤフー株式会社、カナダ留学、株式会社 CRAZY を経て、株式会社WHERE創業。約2万人の会員を持つ地域コミュニティメディア「LOCAL LETTER」、産学官民の起業家70名以上が登壇する地域経済サミット「SHARE by WHERE」など地域、業界を超えた共創を創出。長野県根羽村で一棟貸し宿を立上げ事業譲渡など独自の事業作りで活動中。

小池:僕も今日はそのあたりをお話できればと思っています。本企画の「生き方」というのは、自分の人生の中で大きなテーマでもあるので。キャリアとして、いわゆるプライム上場企業で、子会社代表もしていたというと、 “キラキラのキャリアですごそうな人” という印象を受けるかもしれないですが、全然そんなことないんですよ。

「プロになりたい」下積み時代。バーテンダーや、ベンチャー企業での気づき

小池:僕は栃木県出身で、地元の公立高校に通う当時、野球ばっかりやっていたんです。部活が終わった頃の偏差値が38で、「やべえ」みたいな(笑)。

平林:野球一筋だったんですね。

小池:はい。一応進学校だったんですけど、学年240人中239位のような状態で、部活が終わってから猛勉強しました。どうにか神奈川大学に受かったものの、アルバイトばかりで多忙な学生時代でした。

その上、いわゆる就職活動をしなかったんです。正直に言うなら「できなかった」。エントリーシートを書いて説明会にも行ったけど、「自分が何をしたいか」わからないし選べなかった。ただ、「何をしたいか」はわからないけど、「プロになりたいな」と思ったんですね。

当時、飲食店でアルバイトをしていたので、飲食や接客の世界でプロを目指すことを考えた時、バーテンダーというアイディアが浮かびました。それで、横浜にある昔ながらのオーセンティックバーと言われるお店で3年間バーテンダーとして働きました。

平林:3年は長いですね。

小池:そこでの経験は、未だに僕のベースになっています。高級店なだけあってすごく厳しいお店で、お酒の試験と技術の試験に合格しないとお客様にお酒を提供できないんです。お客様も企業の役員や社長さんなど幅広い方がいらっしゃるので、多くのことを学ばせてもらいました。

ただ、正直なところ給与が少なくて。社会保険なしで月の手取りが15万円だったので、この仕事を将来的に続けていくのは難しいと判断しました。自分の中で「ビジネスを全然知らない」という課題感もあったので、昼の仕事に転職しようと決めたのが22歳の頃。

でも、就職歴なしで水商売の経験しかない人間を雇ってくれる企業なんてなかなか見つからないわけです。ようやく入社できた会社は、創業まもない飲食関連のコンサルティングに携わるベンチャー企業でした。

僕はそんな中でめちゃくちゃ数字を出したんですよ。当時23歳で社内では最年少だったけど業績は大体トップで、大阪の支社長も務めました。

平林:そんな過酷な環境下で、小池さんはどのように業績を上げられたのですか。

小池:その企業は経営状況こそ悪かったものの、個人のプレイヤーとしての能力がみんな高かったんです。何が駄目だったのか、逆にどうすれば課題をクリアできるのかなど、「なぜ」をずっと追求される環境下で仕事をしていました。その先輩たちの教えがあったからこそ、業績トップという成果を出せたのだと思います。

上場を目指していてそれなりに拡大はしましたが、結果的にその企業は潰れてしまいました。そこで今後のことを考えた時に、営業で数字をつくるプレイヤーとしては自信があるけど、経営のことはまったくわかっていないことに気付いたんです。

そのため、経営を学べる企業に入ろうと決めました。具体的には、「IT系の企業で創業歴が短い上場企業だったら、何かと学べるだろう」と。これからはITに関して無知なままでは、この先やっていけないと思ったんです。そこで入社したのが、不動産情報サイトを運営する株式会社LIFULLでした。

自分のやり方を地方で模索。優秀さの裏で抱える焦燥感

平林:プロを目指して、営業トップを目指して、経営を目指した結果、LIFULLに入社したんですね。

小池:はい。でも、最初に配属された関東圏で大きなミスをやらかしてしまって、入社2ヶ月目に地方に飛ばされたんですよ笑。でも、地方で伸び伸びやれたことが功を奏して、年間トップセールスを記録したんです。

僕1人で4〜5つの県のエリアを担当していたので、ずっと地方を飛び回っている状況でした。その中で、自分なりの広告営業のやり方を手探りで学べたのは良かったです。

僕には「経営学を学びたい」という思いがあったので、他の人と違うアプローチができたことが成績にも反映されたのかな、と。

平林:その “違い” は、具体的にはどのようなものだったのですか。

小池:僕は「顧客会社の本当のパートナーになろう」というスタンスだったので、広告営業だけに止まらず、経営会議や採用、店舗運営の現場にできる限り顔を出していました。そこで、自分の意見を臆さず話すんです。

この会社がどのように、どういうポジショニングで勝つべきか。何が課題で、どうするのがいいか。そんな感じで話しているうちに、相手の営業担当や広告担当が「なんか変な奴いるぞ」と認知してくれて。社長などの上役の人たちにもかわいがってもらえるようになりました。

結果、互いに有意義なディスカッションができるようになり、自分のファンになってくれる人たちがたくさんできたんです。

平林:それこそ営業の本質ですよね。顧客の課題を把握し、そこと向き合い続けたんですね。

小池:そうですね。そこから大手の担当や新規の営業責任者を任されるようになり、6〜7年間ぐらい、営業畑のホープ兼マネージメントを担う形でした。ただ、企業の仕組みの中ではめちゃくちゃ優秀な駒だったけど、僕自身は大きな焦燥感を抱えていたんです

そんな中で大きな転機になったのが、若手起業家による若手起業家のためのイベント「SLUSH ASIA」開催の立役者である、「Mistletoe(ミスルトウ)」代表取締役兼CEOの孫泰蔵さんとの出会いでした。

スペックやお金じゃない。「やればできる」強烈な成功体験

小池:孫泰蔵さんと出会う前、アメリカの靴のECサイト「Zappos(ザッポス)」へ研修に行く機会に恵まれました。その際、Adobeの祭典「Adobe MAX」に参加して、テクノロジーの進化に衝撃を受けたんです。その頃から「もっと外を見よう」と強く思うようになりました。

平林:社内にいすぎると、自覚がなくてもそこだけが世界になりがちですもんね。そこから抜け出すのは、なかなか難しいですよね。

小池:難しかったですね。だから、泰蔵さんと出会い、スタートアップの祭典と呼ばれる「SLUSH ASIA(スラッシュ アジア)」のイベントに携わる機会を与えてもらえた体験はすごく大きかったです。

小池:「SLUSH ASIA」にはボランティアの形で関わり、普段の仕事をこなしながら追加でやっていました。

僕は営業の責任者で、「2ヶ月後に8000人集めたイベントをやる」ことが決まっていて、予算を聞いたら「2億だ」と。場所の選定にはじまり、スポンサーを獲得して予算の2億円を2ヶ月以内に集めるのが役割でした。

もちろん僕自身だけでできることではないので、泰蔵さんのネットワークを使ってサポート的な立ち位置で動いていたのですが、その時に「すごいと思う人たちも実はスーパースターじゃない」ことに気付いたんですよ。誰しもできないことがあって、苦手なことがある。

そこで、自分が今まで営業やマネジメントで培ってきたスキルを活かして貢献できることがあるんだと気付けたんです。

2ヶ月後に8000人もの人を集めるイベントを作れるのかと、最初はみんな半信半疑でした。でも、結果的にお金も集まって、集客もできて、イベントを無事に開催できた。「やろうと思えばできるんだ」と、この時の強烈な成功体験が教えてくれました。これは大きな変化でしたね。

平林:その変化はすごく大きいですよね。僕らも最初の地域経済サミットを1ヶ月で形にした時は、もう無我夢中でつくりましたから。

小池:実はそういう大きなプロジェクトって、ハイスペックでお金やリソースが潤沢にある人が成し遂げているわけじゃないんですよね。

平林:本当にその通りで、泥臭いことを必死に積み上げているんですよね。

小池:実は社会の起点はそこにあって、同じ目標を持つ仲間がいて一歩ずつつくっていけば、ちゃんと夢は叶う。それがわかったので、未来を描いて仲間と形にしていく作業をやり続けた結果、LACなどのアウトプットにつながりました

分岐点ごとに目標を掲げ、泥臭い努力のもとに目標を達成してきた小池さん。後編記事では、病気療養を通してたどり着いた新境地に迫ります。

Editor's Note

編集後記

「大きなプロジェクトは、ハイスペックでお金やリソースが潤沢にある人が成し遂げているわけじゃない」。この言葉が深く刺さりました。小池さんの言葉を通して、「自分なんて」と卑下したり、「あの人たちは特別だから」と相手の努力を知りもせず諦めてしまう人が一人でも減るといいなと思いました。

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