KOCHI
高知県
あなたは、自分の地元や今お住いの地域の昔の姿をご存知でしょうか?
人の数だけ物語があるように、地域の数だけ、また物語があります。今回は、高知の物語を四国大陸よりご紹介いたします。あなたもぜひ、ご自身の地域の物語に触れてみてくださいね。
東京から地方へ飛び出してはや2年、「ブラタモリ」がついに高知へとやってくる。「ブラタモリ」ということは、当然「街」の地形の話なわけで、これに完全に乗ずる形で、2014年に制作した帯屋町商店街のガイドマップ誌「OBIBURA MAP」巻末向けに書いた「高知の中心商店街外史」をリライトしつつ、高知の街中に残る城下町やそれ以後の街の変化を記す地形の痕跡をたどってみることにした。
いまから1000年前、高知の街は海の底だった。「土佐日記」を記した紀貫之の時代には浦戸湾が平野部の奥深くまで入り込み、大津や小津、現在の愛宕山にあった中津には小さな港があり、秦泉寺や朝倉などの山裾に集落が発達していた。洞が島や竹島町といった町名は、かつてこの地に島が浮かんでいたことの名残だ。
本格的に街として整備が行われるようになったのは、慶長六年(1601)からのこと。関ヶ原の戦いで静岡掛川から土佐一国を預けられた山内一豊が高知城を築いたのがはじまりで、高知の街の歴史はわずかに400年たらずしかないというわけだ。
明治維新の激動期を経て、太平洋戦争前まで高知の街も昔ながらの街並みが他の日本の街と同じようにしっかり残されていた。しかし、戦争末期の空襲と戦後間もなくの南海地震で当時の街並みはほとんどすっかりきれいに燃え去ってしまい、城下町時代の名残を留めるものは、わずかに高知城だけ・・・という状況といえる。
が・・・・・しかし!
高知の街の地図をよく見ると、高知城下の街の構造は今にしっかりと受け継がれているし、言ってしまえばあんまり変わっていないところがあることがわかる。
たとえば、城下町時代の区画割りである。
現在の高知市の地図を見てみると、高知城から堀詰までの一帯は街区単位が大きく、堀詰より東側や枡形から西側はずいぶんとこまごました街区になっている。
これは、前者の大きめ街区は高知城を構成する「郭中」と呼ばれたエリアであり、武士たちが住んでいた街区の名残だ。ひとつひとつの家や敷地はかなり大きく、寛文五年(1665)の資料によれば城下全体で433軒の武家屋敷が並んでいた。そして、後者はそれぞれ「下町(郭中の東側)」「上町(郭中の西側)」と呼ばれた町人たちが住まうエリアであり、下町では2000軒、18000人近い人々が軒を寄せ合って暮らしていた。
地図を見てもわかるように、その面積は圧倒的に郭中が大きくゆったりとしていて、それ以外は、ひとこと、狭い。
上の図は正保元年(1644年)の城下の様子を記した「土佐国城絵図」。これと現在の地図と見比べてみると、「郭中」は主に東西方向の道が加えられたことでやや細分化が進んだものの、県庁付近を中心に大街区がそのまま残っており、「上町」「下町」は比較的そのままの地形が残されていることがわかるだろう。
ちなみに、高知城の南にある台形の区画は八軒町(中島町)とよばれた場所で、高知城の防禦の一角をなす出城としての機能を創建当初は持たされていた場所だといわれている。現在でも堀跡の多くがそのまま道路や区画として残っており、街中では珍しい「斜めの道」で残っている(出典:土佐史談253号「高知城下・中島町の保塁(出城)についての仮説」/この論文は高知城と徳川家康などの関係も書かれていてなかなか面白い!)。
「郭中」は今の言葉で言うと武士の中でも上士向けの住宅地域であり官庁地区とでもいうべきもの。それに対して「下町」と「上町」は下級武士である下士らの住宅地域であると共に、武士社会の暮らしを支えるための商業地域、工業地域、港湾地区であり、それらに従事する人が暮らす住宅地域でもあった。
たとえば、現在のはりまや橋小学校や高知市文化プラザかるぽーとのあるあたりは堀川から分岐する横堀があった場所であり、はりまや橋公園も当時は無数の舟が行き交う堀川が流れていた場所だ。下図「浦戸湾下町風俗絵巻」をみてもわかるように、種崎町、浦戸町と呼ばれたこの一帯は船着き場や米蔵、水主屋敷などが並ぶ高知の物流と交通の玄関口だったのだ。
そして、現在の京町商店街やはりまや橋商店街、7daysHotelやはりまや橋小学校、四国銀行本店がある一帯には、刀鍛冶や鉄砲鍛冶、大工や製材業者といった職人、米屋や八百屋、魚屋、乾物屋など現在でいうところの食料品店や小間物屋(化粧品や櫛、かんざし、タバコなどを商う)などの店が並ぶようになった。京町や堺町はそれぞれ京都や堺からやってきた呉服商たちが住んだところで、藩の御用商人として大いに繁盛したという。「はりまや橋」は城下を代表する豪商であった播磨屋と櫃屋が往来のために私橋を架けたのがそのはじまりだ。
なお、この当時の風情をそのまま現在に残すものとしては、はりまや橋商店街(旧中種商店街)から横に伸びる魚の棚商店街がある。この街は寛文年間(1661~73)に藩によって「魚棚」として設けられたもので、城下ではじめて通りに日覆いをすることが許されたところだ。ちなみに、この魚棚は町の西側にあたる枡形の南側にもなにげない路地としてその名残を留めている。
江戸時代が終わりを告げると、明治五年(1872)にそれまで郭中と下町を区切っていた南北の外堀に「新京橋」という橋が架けられ、中種・京町に加えて新京橋通りの界隈が発展しはじめる。なお、戦前期の「新京橋通り」とは、現在新京橋商店街のアーケードがかかっている南北道ではなく、現在の大丸前から中央公園西詰あたりまでを東西に結ぶ道を示していたようだ(戦前は南北の道はなかった)。
この写真は、現在でいえば中央公園横の歩道橋あたりから大丸方面を眺めたもの。手前の堀は、堀川やはりまや橋へとつながる松渕川の船溜りで、右に見えているのが「使者屋橋」、左に見えるのが「新京橋」だ。「新京橋通り」はこの橋を渡って左へと続く。奥に見える建物は新世界デパート。左の小さな路地の奥にあるのは世界館という映画館だ。
左に見える水路は郭中と下町を分けていた外堀の跡であり、現在では大丸の西側にある細い路地と「そば処つちばし」の店裏にある地形の小さな盛り上がり・・・かつての外堀を跨いだ「土橋」跡でしか見ることができない。
堀の位置には現在では「てんこす」が建ち、「使者屋橋」は「てんこす」東側の地形の盛り上がりとなってその名残を留める。今では「新京橋」は一切跡形もない。記念碑的なものもないので、ここに橋があったことなんて、そもそも知らない人が多い。
下図は、界隈の外堀や松渕川跡などを示した概略図だ。これらの水路が60〜70年前まではあった。
なお、新京橋の外堀はさらに北へと続き、現在の追手筋公園を経て追手筋へと至る。追手筋はこの外堀と交わる位置から「く」の字に角度を変えているのも城下町時代の名残で、この位置には土塁と堀、折れ道の3点セットで郭中を防禦する機構があったそうだ。若干道を曲げることで敵の来襲時に鉄砲や弓矢の通りを悪くする一方、土佐藩のメインロードとして、下町から郭中の武家屋敷街や山上に聳える高知城を「見せつけ」ていたのではないかという(土佐史談253号)。
こちらは現在のはりまや橋公園、当時の「使者屋橋」から中央公園側を望んだ戦前の絵葉書だ。現在てんこすが建っているところには松渕川の船溜まりがあり、そのほとりにはかき船が浮かび、後の南海地震で崩れ落ちることになる野村ビル、中央食堂ビルなどが煌びやかなネオンで彩られている。
この右手にちらりと欄干が見えているのが「新京橋」。さきほどの写真で手前に見えていた橋だ。ここをさらに先へ進むと、「新開地」と称された高知を代表する繁華街になっていた。一帯には写真館や書店、靴屋、玩具店、時計店などのお店、玉突や射的などの遊興場にキャバレー、カフェ、食堂などの飲食店がひしめきあい、呉服や洋品が揃う高知を代表する「ザ・商店街」であった京町や中種と対をなすエリアになっていた(この頃は帯屋町商店街はまだまだ未発展)。
が、これらの風情あふれる風景は、昭和20年7月の空襲であらかた燃えさってしまう。
現在ではまったく想像がつかない風景だが、これらは全部同じ場所だ。
ここからが、高知の街の、激変の時代。
昭和24年、高知の商店街のメッカであった中種商店街が大火に襲われ、多くの商店が帯屋町へ移転。昭和27年頃までには電車通りも現在の幅員への拡幅整備が進み、高知の商業エリアの重心はそれまでの京町・中種から西へ西へと徐々に移動していく。
昭和28年にはそれまで「辺境」の商店街でしかなかった帯屋町2丁目からアーケードの架設がスタート。商店街エリアの西端にあたる大橋通りも、戦後まもなくから朝から晩まで鈴なりの人で賑わうほどに活気を取り戻している。当時を知る人に話を聞けば文字通り「働きっぱなし」の毎日だったという。
昭和29年の《日本商工業別明細図》を見ても、文字が立て込んでいるのは街の西ばかり。
東にある京町から中種のあたりはやや活気を失い気味であることがうかがえる。
昭和30年代にもなると、街はさらに拡張を続け、昭和30年頃までには新京橋が架かっていた外堀が埋め立てられ、昭和31年には現在地に高知大丸が竣工。新開地は海外引き揚げ者や被災者の住宅地と商業地が混在する形で活気を取り戻り始めていたが、昭和33年には一切合切が取り壊されて中央公園に生まれ変わった。
また、かつて高知随一の繁華街であり、なんとも情緒のある風景が広がっていた船溜りや、使者屋橋・はりまや橋が架かっていた松渕川は昭和40年頃までに埋め立てが終了。今振り返ってみれば、ある意味街中の「顔的」な風景はこの時に失われたのだ。※船溜りは以後平成の時代に至るまで「なんとも中途半端な駐車場」として活用されていた。
「郭中」と「下町」をわけた外堀の界隈は、かように昭和20年から40年にかけてのわずか20年の間に、地形も風景も大きく変遷を遂げた。江戸時代の高知城築城以来、高知の街の都市構造はあまり変わっていないと最初に書いたが、このエリアだけはもうどこがどこだかわからないほどに大きく変化をしているのだ。ブラタモリ的な地理の楽しみは、高知のような地方都市ではなかなか奥深いところまでいかないと思われがちだ(まあ東京や大阪ほど規模が大きくない&数は少ないのだが)。
だが、高知のような地方都市でも、古い地図や写真と今の地図、写真とを見比べていくと、様々な「痕跡」を発見することができる。高知の場合、わかりやすいのは、河川と水路だ。昭和40年代から50年代にかけて急速に都市のスプロール化が進むと同時に大規模な台風災害が高知を襲いまくった時代で、河川や水路の暗渠化や付け替えが急速に行われていた時代の痕跡だ。上町から升形、新屋敷から昭和町・比島、南万々から秦南町あたりはわかりやすいし、規模も大きいので見飽きない。これらはいつかまた時間をかけて取材していきたいと思う。
情報提供元:四国大陸(2017年9月30日配信記事)
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