NEBA, NAGANO
長野県根羽村
近年、新型コロナウイルスによる働き方の変化によって、地方への移住を考え始めた人が増えつつある。しかし、実際に移住を検討し始めて最初に悩むのが、仕事の少なさについてだ。どのような働き方ができるのか。十分な収益を得ることができるのか。その不安は尽きない。
そのような中で、長野県の根羽村にUターンし、トマト農園を経営する小林智雄さんは、自ら仕事を生み出そうとチャレンジしている。高校生の頃から人口わずか900人という地元に戻ることを考え、地元の気候にも対応できる栽培方法を学んだという小林さん。現在は正社員2名、パート6名の雇用を抱え、年間40トンの収穫量を誇る農園へと成長させた。
そんな小林さんだが、一度は県外で農家として働くことを考えたこともあったいう。最終的には地元へ戻ることを決断し、現在の農園を作りあげた裏側には、どのような背景や想い、哲学があったのだろう。今回はインタビューを通して、小林さんの物語を紹介する。
ー今日はよろしくお願いします!まずは、小林さんのこれまでについて簡単に教えてもらえますか?
小林ともおさん(以下、敬称略):長野県の根羽村で生まれました。祖父母が牛飼いをしていたのもあって、山の中で畑仕事を手伝いながら幼少期を過ごしました。
中学までは村で過ごし、高校からは(根羽村には高校がないため)村外に出ました。高校3年生で進路を考えていた時に、このまま村に帰ってくる人がいなければ、地元がなくなるかもしれないという寂しさと、危機感を目の当たりにして、根羽村に持って帰れる技術を学ぼうと、大学進学を決めました。
ー18歳ですでにUターンを考えていたんですね。
小林:高校の下宿先で一人暮らししていると、年末とお盆しか根羽村に帰らないんです。それで逆に大切さを実感して…。
ーなるほど。大学はどちらに行かれたんですか?
小林:静岡県にある大学の農学部に進みました。根羽村でできる仕事って、農業くらいしか思いつかなかったので。いつかは農家として帰りたいと思っていました。
ー大学ではどのような経験を?
小林:真面目な理由で進学を決めたのに、2年目くらいまでは、バスケサークルという名の飲みサーに入って、遊んでばかりいました(笑)
小林:ただ、3年目で就活を始めた時に、周りの友人が農業とは関係のない進路を選ぶのを見て、違和感を感じて…。そこで、自分の本来の目的を思い出したんです。
ちょうどその頃、研究室を選ぶ機会があって、トマトを、肥料の入った養液内で育てる「養液栽培」という方法に出会いました。この栽培方法は、トマトの生育に関わる肥料や水の量を正確にコントロールできます。しっかりとデータを取りながら、栽培管理を改善していけば、確実に収穫量を増やせるという部分が魅力的で、それで、これだったら根羽村で出来るぞと、持ち帰ることを心に決めました。そこからの1年半は、集中して研究にのめり込みました。
ー卒業後はすぐに根羽村に戻ってきたんですか?
小林:そんなことはなくて。実は卒業直後、ちょっと魔が刺したのか、静岡でトマト農家になろうとした時期もありました。
というのも、静岡は、中古のビニールハウスもたくさんあり、かつ、暖かい地域なので、根羽村に比べてトマトの収穫時期が大幅に長いんです。トマト農家をやるならば、静岡でやった方が成功する確率は高そうだと感じていました。
ただ、すぐ独立したわけではありません。大学の小さな施設の中でトマト栽培を体験してみただけでも、農家の難しさを感じていたので自信がなくって。そこで、農家として研修させてもらえる企業に入社することを決めました。
ーそうなんですか!そこではどのような体験を?
小林:その企業では、大学で学んできたということもあり、1年目からハウスを一人で任せてもらったんです。
ーすごい。期待されていますね!
小林:いや、それが散々な結果になったんですよ(笑)
ーと、いいますと?
小林:トマトは一つの苗で、一年間収穫し続けるので、途中で病気が出ると、その年は実がとれなくなってしまうんです。管理の仕方が良くなかったのか、病気で出荷できないトマトも多くて…。1年目の結果を報告書で提出したら、当時の社長はため息をついていました(笑)
1年目は自分の給料すら賄えないくらい赤字でしたし、大学で勉強したことが何も活かせなかったりと。屈辱を味わいました。
ー大変な結果でしたね。
小林:でも、そのおかげでプライドを全部捨てて、がむしゃらになれました。会社の営業の先輩が農家さんの元に出向く際には、お願いして同行させてもらったり、社内にいるトマトの病気について詳しい人に教えを乞うたり。見聞きしたことを全部データに残して、地道に研究していったんです。
小林:その結果、2年目にはすごい良い結果が出ました!
黒字も出せたし、その年の借金も返せて。会社の人たちも認めれてくるようになった。その成功体験で自信が出てきたのか、一人でも農家としてやっていけるんじゃないかと考え始めました。
ー根羽村に戻ることを決めたきっかけはありますか?
小林:その頃は、会社からハウスをもらって静岡で独立しようと考えていたのですが、栽培が上手くいくようになった時に、ふと、何のために、誰のためにトマトを育てているのか分からなくなったんです。
静岡の人たちに食べてもらえるのは嬉しかったけれど、どれだけ成果を出しても、それは会社の利益になってしまうわけで。それが何年も続くと思ったら、本来の目的はここではないなと思い出しました。
ー初心を思い出せたんですね!
小林:収穫可能な時期が短い根羽村だとしても、養液栽培という方法ならやっていけるだろうと考えていましたし、1年目に一人で全部やらせてもらえたおかげで、新しい土地でもできるという自信もできました。
そこからは、育ててきたハウスを継続的に運用していく為に、後継者を育て、3年で会社を辞めて根羽村に戻りました。
ー帰ってきてみて、根羽村は変わっていましたか?
小林:人口の減少や過疎化が進んでいる雰囲気を肌で感じましたね。あんまりいうと「衰退してないよ」って怒られるかもしれないですけど(笑)
ーそこから、これまでの経験を生かしてトマト農園を作っていったんですね。地元とはいえ、新しい土地でトマトを育てるの大変さはありましたか?
小林:まずは要領を得るために、全部一人でやっていたので大変と言えば大変でした。
役場の人とかも応援してくれて、土地を借りるまではスムーズに行きましたが、根羽村でトマトをやっている人は、ほとんどいなかったので、かなり心配されました。
だからこそ、絶対に結果を出そうと、それまでの知識を全部入れ込んで、計画をみっちりたてました。大学の研究からずっとデータを集めながら開発してきた独自のシステムが功を奏して、予想以上の収穫ができたんです!
ー初年からすごい!データを積み重ねて、計画を緻密に立てるスタイルが小林さんの特徴なんですね。
小林:そうじゃないと、自分が納得できないんだろうと思います。養液栽培というものに面白みを感じたのもそこかもしれない。
露地栽培で作ると、同じ量の肥料を入れても、流れ出てしまう量の違いとか、天候とかによって正確なデータは取れません。
一方、養液栽培は、肥料を入れた量も、漏れ出た量も明確なので、データに照らし合わせて管理することができます。根羽村でトマトを作るというリスクを考えると、データがないと立ち打ちできないと思っていました。
ー根羽村に戻って農園をする際のリスクを潰していったと。
小林:基本的にそう。あとは、植物生理に当てはめて、どういうときに、どんな栄養を欲しているかを考えていく。
小林:大抵の場合、人間が環境をおかしくしていて。例えば、ビニールハウスはできるだけ温めればいいと思っている人もいるんだけど、そんなことはないんです。そうやって人の手によってトマトが育ちにくい環境を作っている面もあって、そこを取り除いていくことができれば、上手くいくと思っています。
自分のUターンに関してもそう。目的が達成できなきゃ意味がないから、計画を立てて、リスクになりそうなものを、一つ一つ潰していきましたね。
ートマト農園の経営面でのこだわりはありますか?
小林:楽しく働いてもらうということかな。根羽村に帰ってきた目的は、自分が雇用の受け皿を作りたいということだったから、楽しく働ける場所づくりをしようと心がけています。
忙しい時期の前後に、「小林農園の感謝祭」と称して、みんなと一緒にBBQをしたり。みんなが楽しくそうにやってくれているのが嬉しいです。
ー初めて人を雇った時はどんな気持ちでしたか?
小林:パートとして初めて来てくれたのは23歳のママさん。面接で最初に会ったときには金髪で驚きましたね。根羽村に金髪の人なんてあまりいないんだもん(笑)
ー個性の強いメンバーが多くて楽しそうですね!
小林:最初は農業経験もなく、不安な様子だったけど、年齢が近いのもあって支え合って
やっています。
ーこれまでの集大成として、昨年の収穫はいかがでしたか?
小林:4年目になる昨年は、トラブりました(笑)これまでは、毎年ハウスを増築して収穫量も作業量も増えていて、昨年は、なにも変えずに計画通りいこうと思っていた矢先、届いた苗が先天的におかしい部分があって…。
苗の業者さんもすぐに代わりの苗を用意してくれたんですが、計画が2ヶ月遅れになってしまいました。これまでの支払いとかもあって、一番稼がなきゃいけないときに大きな痛手でした。
さらに、一番信頼しているパートリーダーのママさんも産休に入ったので(嬉しいことだけど!)、環境変化は大きかったなぁ。色々なことが相まって、感覚的には一番大変な一年でした。
そろそろハウスの増築を止めようと言いつつも、なぜか、ハウスの空きがあるという情報が舞い込んできたりして(笑)
ーまだまだ進化していきそうですね!今年の目標はありますか?
小林:今一人、地域おこし協力隊として働いてくれている方がいます。元々は公務員として働いていていた方なんですが、トマトの養液栽培を見て「自分もこの方法で農園を作りたい」と来てくれました。
まずは、その独立のサポートしながら形にできると良いなと思います。本来の目的であった雇用を生み出すこともそうだし、根羽村への移住者を増やせるという意味でも、そこに全勢力を注いでいきたいと思います。
ー目指していることはどのくらい叶っていますか?
小林:まだ、2%くらい。目的が大きすぎたのもあるけれど、まだまだ何人も雇えるわけじゃないので。一つの小林農園というコミュニティーができたくらいだからゴールは遠いですね。
ー5年後くらいの、理想のイメージはありますか?
小林:視野が狭いかもしれないけど、農業という分野で働く若い人が増えてたら良いなって思います。農園の経営にある程度余裕ができて、他の作物をみんなで育てたりできたらいいですね。また、コツコツとデータを取りながら。
あとは、小規模農業の特徴を活かして、体験型の農業や中山間の農業を維持していく活動に挑戦したいですね。
そうやって、新たな挑戦が始められるのが大体5年後くらいかなぁ。コツコツとやりすぎてたら、間に合わないかもしれないですね(笑)
ー着実に前に進んでいきそうですね。最後に、今後Uターンや移住を検討している方に対して、何かアドバイスはありますか?
小林:自分は最初から一つの生業を極めていきたいという気持ちがあり、のめり込めたおかげで、結果的に今のような形になりました。
違う選択肢もあると思うけれど、移住をするにしてもしないにしても、何か生きがいになることを見つけられれば人生が充実するんじゃないかと思います。
移住したい先の仕事が少なかったり、稼ぎが少なそうに見えても、それが好きになれるならば飛び込んでみたらいかがでしょうか。
Editor's Note
根羽村に仕事を持ち帰ることを決めてから努力し、目標を一つずつ叶えている小林さん。その目的意識の強さや、目標達成力には脱帽しました。インタビュー前には、大雑把で情熱的に物事を進めるタイプだと想像していたんですが、話していると、どちらかといえば、物静かで論理的、着実に進める方だということが分かります。そういう性格の部分も含めて、養液栽培という手法はぴったりだったんじゃないでしょうか。溶液栽培との出会いも含めて、小林さんの人生をみていると、目的意識の強さが、人生にとって必要な機会を呼び寄せるんだなと自然と感じさせられます。小林さんが、これからどんな未来を生み出していくかが、一ファンとして楽しみになりました。
FUMIAKI SATO
佐藤 史紹