SUMMIT by WHERE
越境教育————。
聞き慣れない言葉かもしれませんが、実は地域のあらゆるところで、始まっています。越境とは、今までの教育のあり方から離れ、越えていくこと。
では、越えることでもたらされる価値とは何か?コロナ禍でどのように向き合っていくべきなのだろうか?
そんな疑問を持つアナタのために開催した、地域経済を共に動かす起業家のためのサミット「SUMMIT by WHERE」。第1回目は、完全オンラインにて、日本各地30箇所以上の地域から、第一線で活躍する方々が集まりました。
中でも本記事では、「越境教育の夜明け、あらゆる制限からの開放とは?」について、岩本悠氏(一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォーム 代表理事)、内藤賢司氏(ゼロ高等学院 学院長)、林靖人氏(信州大学 総合人間科学系 教授)、三井俊介氏(NPO法人SET 理事長・NPO法人高田暮舎 理事)の豪華4名のトークをお届け。
後編では「これからの教育や学びをどうつくっていくのか」、今までの実践から紐解きながら、未来に向けた話が語られました。
三井氏(モデレーター:以下、敬称略):皆さんに僕自身が聞きたいと思っていたことがあるんですが、僕は「越境教育」という言葉自体に、違和感があるなと思っていて。そもそも学校で全て完結するという前提があるような気がするんです。
人間は、複数の社会と関わって生きている中で、越境も何も境はつくれないと思う一方で、学校教育といった言葉のように、「境がつくられている」とも思っています。こういう境っていつ頃からできてしまったのでしょうか?
岩本氏(以下、敬称略):例えば17.18世紀、大帝国時代のヨーロッパやイギリスでは、エリート貴族は家庭教師つけていましたが、当時からあった1つの「越境」は、グランドツアー(裕福な貴族の子弟が、成人になる前に行う大規模な国外旅行)だと思っていて。1年間、ヨーロッパからロシア等へ旅することもあったようです。
これは、自分と似たような生い立ちの人たちに囲まれて育つだけでは、本当の意味で強いリーダーは育たない、という理念が歴史的にあったからだと思っていて、あえて外に出すということを文化的に行なっていたと考えられるんです。
日本の学校教育は明治時代にドイツから参考にしていて、今までの効率的に知識や技能を習得させるというやり方は、富国強兵でやっていくには効率的だったと思うんですが、現代に必要な1人1人が自分の頭で考えて、チャレンジをして、課題を発見して解決していく力を得るには限界があると言われ始めたのが、最近特に影響を与えているのかなと思っています。
三井:なるほど。おふたりはいかがでしょうか?
林氏(以下、敬称略):私は、教育史が専門ではないので、本当のことは分からないですが、明治維新前後で学習の質が変わったと思うんですよね。今はどっちかっていうと、ボトムアップで全体的に学力を上げていくイメージです。合理性を考え、集団に対して一定の教育を、効率的に、教えていくことが重視されてきたのが今の教育かなと。
一方で「個性を伸ばす」ことが、いつの間にかどこかに忘れられてきてしまったからこそ、今問題が起きてきたとも感じています。これまでは、均質化も大事だったと思うんですよ。問題になってきたのは、ボトムが上がってきたからで、さらに成長させようとすると、どうしても限界が生じてしまうのが今かなと思います。
武道だと「守・破・離」という言葉がありますが、基本はみんな覚えてきていて、義務教育は相当レベルが高いと思うので、今は「破・離」のところをいかに身につけられるかが「学び」にとって必要で、「越境」という視点でも、ここが次のステージになるかなと思っています。
内藤氏(以下、敬称略):僕は「評価される」ことにコミットメントし続ける限り、あまり学校教育は意味がないなと思っています。
社会人になるときには、「なんで君はこの仕事をしたいの?」とか「どんな生き方してきたの?」とか、自分の意思を聞かれることが増えるんですが、その割に、中高生のときはそういったことはほとんど聞かれません。中高生の時は、減点評価しかされないから、みんな評価されることにコミットするんですよ。
評価されることにコミットし続ける限り、社会との解離があると思っているので、この解離を大前提に、社会で必要とされるものは何かを整理して、それに対して「今の段階でこういう風にしたら力がつくんじゃないか?」と、トライアンドエラーをしていくことが大事だと思っています。
内藤:ゼロ高メンバーの中で、共通言語として大切にしていることがあって。それが「先回りしない」なんです。今の教育って「いかに詰め込むか」にフォーカスされがちだと思うんですが、「いかにやらないか」をしないと、子どもたちが自分で考えられる機会が生まれないんですよね。「あんたこうしないさい!」って先回りされて、個性が潰されていってると思うんです。
究極的に、これから必要になってくるのは「不完全さをいかに許容するか」だと思っていて、大人たちは、完全であることを望んでしまいがちじゃないですか。「良い大学・良い会社に入って欲しい」とかね。その気持ちもわかるんですが、そもそも完全な世界なんか存在しないんだからこそ、不完全さを認めた上で、トライアンドエラーを一緒にして、「どうやって目の前に起こった問題を解決するのか」に頭を使っていく習慣をつくることが大事だと思ってます。
完全さを求めるが故に、愛情が歪み出してしまうので、「いかに不完全さを許容するか」が今後社会の中で必要になってくると感じていますね。
三井:いま、皆さんのお話の中で、キーワードでとして、「自分の頭で考えられる」「個性が伸びる」「個性を発揮する」「不完全さを許容する」があったかなと思うんですが、これから社会に求められる人材像や能力はここら辺に集約されますか? 他にも必要だと思われる要素はありますか?
岩本:内藤さんに伺いたいと思っているんですが、「不完全さ」ってすごく良い表現だなと思っていて。ただ、この不完全さを重視した時に、今までの評価軸では合わないという課題が出てくると思っています。例えば、今だと「難関大学に行った・行かない」が評価軸になることがありますが、不完全さはこれでは評価できません。そうなったときに、どこを評価ポイントとするのか、何を価値とするのかが気になります。ゼロ高として育てたい力や、こだわりとかありますか?
内藤:「型にはめたくない」という前提がありつつ、何か壁が立ちはだかった時に、くじけて部屋にこもってしまう人生はもったいないとも思っているので、「他人は思っている以上に自分の話を聞いてないよね」といったニュアンスを伝えていて、窮屈な世の中でも生きていける人間になって欲しいという想いがあります。
岩本さんが今までされたことにも通じると思っていますが、「わざわざ詰め込まなくても、結果的にうまくいっている」という事例は、世界中にあると思うんですよ。この事例をいかに一般的にしていくかをいつも意識しています。
岩本:確かに、僕らも「東大に入れたい」と思って教育活動をしたことはないけど、結果的に東大合格者が増えているということはありますね。
内藤:さらにお伝えすると、僕らは「どこに」進学・就職するかよりも、「なぜ」進学・就職するのかに注目しています。
例えば、ゼロ高生が「大学進学したいです」と言えば、「なぜ大学進学したいのか?」「何をやりたいのか?」と問いを投げることで、学生の想いを掘り下げて、言語化までするんです。そうしないと、大学に入った瞬間に燃え尽きちゃったり、やる気が無くなったりするんですよ。だからこそ、想いの掘り下げと言語化は、本人と一緒にやっていくことが大事だとも思っていて。そのためにも、これからは、ティーチングからコーチングへのシフトが重要。
今までは、「偏差値で入れる大学に行きます」だった大学の志望理由が、「林教授がいる大学を選びます」とか、「これを学びたいから、この大学に行きます」という形にできると、学生も退屈に感じない世界をつくれるのかなと思いますね。
三井:僕自身、学生時代に留学をした時に、日本の当たり前が通用しない世界で、「なぜ」をたくさん問われる機会がありました。彼らには「日本だったらこれが当たり前」は通用しなくて、一つ一つを考えて言語化する必要があったんです。
違う文化に触れることで、自分にとって当たり前だったことを改めて考え直し、言語化するきっかけが生まれ、しっかりと自分にとって意味を見出せるようになる。内藤さんのお話を聞きながら、このフローそのものが越境教育の1つ、大きな価値なのかなと思いました。
三井:では、実際に皆さんが話された教育が世の中のスタンダードとなるためには、どのようにしたら良いのでしょうか?
林:明確な解答がまだあるわけではないんですが。「制約」は年々増えていて少し危ないかもしれませんが、リスクを負ってでも、何かをチャレンジさせてみることで、今の教育にも変化が生まれると思っています。
小中高大と、全く同じではないですが、一定の枠を超えてチャレンジできるような学びの場はずっとあってほしいなと。時には、レールから外れてもいいし、みんなと違うことをしてもいいよって、許容できる社会をつくっていくことから始められるといいなと思います。
内藤:人類史上も、歴史上も、基本的にイノベーションが起こりやすいのは、若者の比率が高い社会なんです。超高齢社会は、どうしても保守的になりやすい。だからこそ、重要なのはとんでもない変化を起こそうとする若者が出てきた時に、とにかく邪魔をせずにいることが大事だと思ってます。
三井:日本は少子超高齢社会で、かなり若者が減っていますし、これからも減ると言われているので、おじさんおばさんが先回りしないことは大事かもしれませんね。
岩本:学校教育を見ていると「しなければならない」「してはならない」がガチガチにあるんですよ。ここに「◯◯もできる」と、ルールの輪を広げていくことも大事だと思っています。
今年度から僕らが始める取組みに「3年間で同じ高校で過ごさなくていい」というものがあって。1年目は〇〇高校で、2年目はゼロ高に留学、3年目はまた〇〇高校に戻って来るということが実現できるように、今内閣府と話を進めています。高校生にとっても公教育の中で「越境ができる」とわかれば、「こんなこと、あんなことをしたい!」と越境の範囲がどんどん 広げていくことができると思っています。
「当たり前」ということにさえ気付いていない部分を「どう越えていくのか」はすごく重要です。例えば、黒いものしかない環境にずっといると、黒い環境に違和感を抱くことはありませんよね。でも、白い環境に越境すると、初めて自分が黒い環境にいたことに気づく。
白と黒しかない世界にいると、「どっちがいいのか」という発想になってしまいますが、ここに越境が起これば、赤、青、黄、緑、、といろんな世界があることを知って、「どっちが正しいか」ではなく、「多様であることが美しい」ということに初めて気づける。
さらには、多様な色の中で越境が起これば、色は違っても、根底にある共通性(本質)を見いだすことができるようになるんですよ。これが越境の価値だと僕は思っています。
草々
Editor's Note
戦後、教育の見直しが行われ続け今の教育があります。残していくべきこと・変えていくべきこと、その選別は私たちの未来につながる。越境教育は今問われている教育のあり方にヒントをくれるようなお話でした。
これまで当たり前にあったものがなくなり、まだ誰も歩いたことのない社会・教育をつくっていく新時代に向けて、実践から見えてきた大切なこと。
GENSEI TANAKA
田中 絃正