FUKUSHIMA
福島
自分で自分の人生をコントロールする。
自立した人が増えれば、この世の中はもっと幸せになる。
口で言うことは簡単ですが、体現するのはいかに難しいことでしょうか。
一度は住民が0になった福島県南相馬市小高区で、自立したまち・人・仕事をつくるべく活動されている和田智行さんの半生に迫ります。
自分で人生を切り拓いていきたいアナタのヒントになるかもしれません。
ー南相馬市・小高区で精力的に活動されている和田さんの子どもの頃は、どういった性格をされていましたか?
和田さん(以下、敬称略):一言で言うと、地元のガキ大将でした。何をするにも自分が決めてみんなで遊ぶ。近所にたまたま多かった年下の子ばかりと遊んでいました。「引っ張っていく」というよりは「面倒をみる」という感覚でした。
ーその時に熱中していたものはあったのでしょうか?
和田:僕は小学校の時からずっとトランペットをやっていました。中学では110人程が所属する吹奏楽部に入り、3年生では部長になりました。南相馬市は吹奏楽が盛んで、全国大会で金賞を取るような中学校もあるんですが、その中でも一生懸命努力して、3年生の時に初めて福島県代表になりました。
当然、高校へ行っても続けようと吹奏楽部の強豪校へ入学。全国大会に行った人たちばかりでしたが、1年生の時から先輩を差し置いてコンクールに出ていたのですごく天狗になりましたね。俺はうまいって。
ー実際、それだけの練習はされていたんですよね。
和田:もちろん。練習も音楽の勉強もしました。実際いろんなところから評価もいただいていました。
だけど、あまりにのめり込みすぎて成績が思わしくなくて。僕は進学クラスにいたんですけど、 成績が悪くて一般クラスとの入れ替え対象になりました。そしたら親父から「お前、大学行きたいならトランペットをやめろ。2つのことはいっぺんにできないんだから、どっちかを選べ」って言われて。散々喧嘩して、 高1で吹奏楽部をやめちゃったんです。
ーなぜそのような決断ができたのでしょうか?
和田:「大学に行きたい」という気持ちが大きかった。僕の家は自営で織物業をやっていて、将来的に継ぐことを考えていたんです。子どもの頃から「長男だから家業を継げ」と言われて育って、何も考えずそういうもんだと思っていたんですよ。
ただ、ずっとこの町にいても世界が狭いから、両親からは「東京の大学に行きなさい。4年間は自分の好きなことに時間を使って、いろんなことを吸収してきなさい」と言ってもらってて。
吹奏楽部をやめて喪失感はありましたけど、『吹奏楽日本一の大学に行く』という次の目標ができました。大学でも絶対レギュラー取れるから、行こうと。
ー目標の切り替えが早いですね。大学では予定通り吹奏楽部に?
和田:「吹奏楽部入るぞ」と意気込んでいたんですけど、先輩たちがそんなに上手くなくて…。ただひたすらマシーンのように吹奏楽をやっている先輩たちをみて「視野が狭い」と感じた瞬間、途端に熱が冷めてしまったんです。
だけどトランペットをはやりたくて、管弦楽部に入りました。ニューヨークに招待されて演奏したこともあるんですよ。4年間音楽を続けてよかったなと思っています。
ーそれだけ和田さんを魅了したトランペットの良さは、どういうところにあったのでしょうか。
和田:結局なんでも良かったのだと思います。ただ僕にはトランペットがうまく合っていただけ。努力した分だけ上達していい評価が得られて、それが楽しかったんだと思います。
あとは大勢で1つの演奏曲をやるので、自分の役割を把握したり、全体の和音を響かせるために1個1個音の目的を知って整えていったりするのは楽しかったです。
ー大学卒業後の話を聞かせてください。
和田:就職先は、家業が織物業だったので繊維関係の商社とかアパレルメーカーで基本を学んで地元に戻ろうと思っていました。だけど僕らは就職氷河期世代のピークの頃で、1社だけ最終面接まで残れたんですけど、不採用になった時にもう完全に心が折れてしまった。
両親もだんだん考えが変わってきて「製造業は未来が見通せない。継がせても苦労させるだけなんじゃないか」と思ったみたいで。最終的に「家業は継がなくてもいいけど、家は継ぎなさい」と言われました。仕事がないのに、Uターンはしなきゃいけないって、僕にとってはより一層大変な状況でしたね(笑)。
小高に戻ってもやりたい仕事はなくて。東京へ大学進学して戻ってきた人たちが勤める場所は、役場か工場ばかり。「つまらないな。起業するしかないか」と思いました。ちょうど ITバブルが始まった時期でインターネットが一般家庭に普及し始めた時代だったので、IT業界でスキルを身につければ、田舎でも食えるんじゃないかなと。
大手企業は育ててもらうのに時間かかるだろうと思ったので、ITのベンチャー企業に入って未経験でも最前線に放り出され、無理やりブーストしてもらったんです。
ー家を継ぐためにUターンすることが決まっていた中で、そもそも小高に対して思いはあったのでしょうか?
和田:正直、あんまりなかったです。でも、起業しようと思ってからは「何もないからまちを出ていく」とか「帰らない」と軽々しく言う人が本当に多いと感じるようになって。「ないならつくればいいじゃん」と思うようになっていましたね。
ー私も「地元には何もないな」と思っているのですが、自分が何かをつくり出すって考えはなくて。
和田:そうですよね。僕だって最初の起業理由は、小高で生活していくためですし、 早く金持ちになって40代で引退しようって思ってました。まさに今頃引退している予定でした(笑)。
ーその価値観を変えたのは、やはり震災なのでしょうか。
和田:震災ですね。東日本大震災で原発事故が起きて避難を強制された当時、3歳と1歳の子どもがいて、とにかく不安だったし怖かった。
それまで「お金さえあればなんとかなる」と思っていたんですけど、ある程度お金を持って避難生活を始めても食べ物は手に入らないし、避難所もいっぱいで寝る所もない。僕らの場合、放射性物質から逃げなきゃいけないのに、ガソリンも手に入らない状況でした。そういうことを色々経験して痛感したのは、お金を持っていても、生きることはできないということ。生きる力がなかったんです。
当時は起業したベンチャー企業の役員を2社やってて、結婚して子どももいたら、社会的にはそれなりの成功者に見えていたと思いますが、お金が使えなくなった途端何もできませんでした。「子どもたちのことを守れないかもしれない」と感じた時「自分は何をやってきたのだろう」とすごく考えさせられましたね。
そんな中でも生きられたのは、困った時はお互い様精神で、 お金を介さない助け合いや自分を無条件で受け入れてくれるコミュニティがあったから。
収入はもちろん大事ですけど、 結局その1つの柱がぽっきり折れた瞬間、今の世の中では生きていけなくなる。それなら収入という柱を大事にしつつ、 他にも自分を受け入れてくれるコミュニティや自分が役に立てる場、お金のやり取りを介さず助け合える関係をたくさん持つ方がよっぽど安定だと思ったんです。
ー当時の経験が会社のミッションである「地域の100の課題から100のビジネスを創出する」につながるのでしょうか?
和田:そうです。1つの事業を大きくしていくのではなく、利益が薄くてもたくさんの事業を持つことによって、社会変化や予期せぬ災害が起こって1つの事業がダメになったとしても、会社全体が揺らぐことはないし、地域全体がダメになることもない。
1つの会社としても地域としても、1つの産業や大きな工場、まさに原発みたいな巨大産業だけに依存して成り立ってる場所は、それがダメになった時にあっという間にダメになってしまうので。 小さくても多様な事業者がたくさんいる状況の方が、地域が持続的に安定するんじゃないかなと、そんなふうに考えるようになりましたね。
ー最後に、今何かに挑戦されている方やこれから挑戦される方へメッセージをお願いします。
和田:日々の人生や暮らし全体の中で、非合理的な部分にもしっかり感情と意識を向けながら生活することが大事だと思っています。「こう暮らしたい」とか「こんなことをやりたい」を見つけて、挑戦してみる。
予測不能な未来は、可能性に溢れている。だからこそ主体性を持って楽しむことが重要です。
和田さんがよく口にする「自立」という言葉。個人の人生や会社の事業、地域においても、重要なことだと感じます。
和田さんの幼少期からの性格や熱中していた音楽、学生時代の経験をお聞きすると、自分で人生を切り拓く、まさに「自立」を体現している方だと感じました。
それが、OWBのビジョンや事業、小高のまちづくりにもつながっていて、実際にこの小高から挑戦する人々が増えています。
「ガキ大将」和田さんに惹かれて、小高で自分のやりたいことを叶えていく人々が、これからも増えていくことでしょう。
皆様の人生のヒントになったでしょうか。
Editor's Note
初めてのインタビューで緊張しましたが、それを忘れてしまうほど和田さんのお話に聞き入っていました。活動している方に会って話を聞くこと、その地域に行ってまちを感じることはやっぱり面白い。人や地域の魅力、百聞は一見に如かず!
Mei Fushimi
mei fushimi