SHIMOKAWA, HOKKAIDO
北海道下川町
私には「ふるさと」と呼べる場所がない。
(ほぼ)東京で暮らしている私にとって、高層マンションと大手スーパーが当たり前。
祖父母の家も都心に近く、「昔ながらの」がつくお店をわたしは知らない。
だからなのか地域に訪れると、必ず老舗に入ってしまう。
北海道下川町に訪れた時も多くのお店に訪れた。
・うどん屋(下川町は手延べうどんが有名で、今回は「みなみ家」というお店に入った)
・喫茶店(「アポロ」というお店が大人気)
・食堂(「味よし」というお店に入った)
・ケーキ屋 兼 パン屋(「やない菓子舗」というお店に入った)
・居酒屋(「串辰」というお店に入った)
全てのお店が地域の人に愛され、集う空間に一緒にいるだけで幸せな気持ちになる。
そしてもう一つ、どのお店も共通して「下川六〇酵素卵」という卵を使用した商品を出しているのが印象的だった。
聞いてみると、下川町には養鶏場があるのだそう。
下川町は人口約3,300人、誕生からわずか100年くらいの町。
この町に根付く、養鶏場とは一体どんなところなのか、
早速訪れてみることにした。
今回急な訪問にも関わらず、あたたかい笑顔で出迎えてくれたのは、『あべ養鶏場』を運営する村上範英さんと能藤一夫さん。
50年以上続く養鶏場を守るために移住を決めてまで奮闘するおふたりに、地域にもお客様に愛されるサービスを作るための3つのスタンスをお聞きしました。
村上さんも能藤さんも、もともとは飲食店の営業や新規立ち上げを行い続けてきた三次産業のプロ。養鶏場はもちろんのこと、一次産業に携わることも、「下川町」という場所にくること自体、全くの初めてだったという。
「卵の仕入れを担当したこともありましたが、卵1個を育てるのに一体どれだけの手間と時間がかかっているのか、本来の価格はいくらなのか、そんなことは何にも知らなかったんです。相場の価格に踊らされるのではなく、自分の目でしっかり見てみたいと、養鶏場で働くことを決めました」(村上さん)
「一次産業には、汚い・きつい・休みなしというマイナスイメージが色濃くあります。そんなイメージを払拭したいと思って、まずは自分が一次産業に関わるところから始めようと思った時、ちょうど養鶏場で働くチャンスが巡ってきたんです」(能藤さん)
あべ養鶏場を立ち上げた阿部さんの元で、昼夜問わず勉強し続けたというおふたり。あまりの忙しさに逃げ出したいと思う時もあったそうですが、それでも最初に「挑戦する」覚悟を決めていたから、踏ん張れたと穏やかに話します。
「僕らがやると覚悟を決めた日から今日までずっと、下川町の皆さんにずいぶん助けられているんです。今やっと少しずつ恩返しができ始めたところですかね」(村上さん)
2018年9月6日未明に北海道胆振地方で発生した大規模な地震(最大震度7)によって北海道全域で起こったブラックアウトの際には、下川町の街中は1日で復旧したものの、あべ養鶏場がある地帯は復旧まで3日を要したそう。
そんな時、街中に出ると、ふたりを心配した多くの地域の方が声をかけてくれたり、当たり前のように自分の自家発電機を貸してくれたりする町の人に感謝しても仕切れない。だからこそ、おふたりも地域の人のために自分たちにできることがあれば、何でもするようにしていると教えてくれました。
当初はおふたりと阿部さんの3人で働いていたという職場には、今や9名の従業員がいますが、それでも将来の人手不足は避けられないというおふたりは、この人手不足を解消するためにあべ養鶏場を会社化する決断をします。
「農業のままでは、後継者不足に悩まされ、いずれ下川町で養鶏場を続けていくことは困難になります。昭和30年代には、下川町にも24件の養鶏場があったと言いますが、今残っているのは、あべ養鶏場だけです。会社化することで、下川町で養鶏場を持続していくことが可能になると私たちは考えています」(能藤さん)
「会社化したからには、今までと全く同じではいかない部分もあって。例えば、私たちがあべ養鶏場に入った時は、マニュアルといったものは一切存在せず、とにかく阿部さんの元にくっついて1から仕事を覚えましたが、これからはマニュアルや、組織の仕組み、評価制度なども作っていく必要があります」(村上さん)
人が増えれば当然、意見のすれ違いや反発も生まれる。だからこそ、そこを見据えておふたりはまず、社員と一緒に会社の経営理念を作りました。
会社の経営理念は、『卵創りに関わる全ての人たちのHAPPYのために』
「経営理念の “HAPPY” には、当然従業員の “HAPPY” も入ります。会社としてお給料を払うことはもちろん、人として自分は成長できていると感じる喜びや、対話の時間も大切だと私たちは考えて、この経営理念を作りました」(村上さん)
「働いている人の目指している方向が違ったら、いずれ会社は分裂してしまいます。私たちの仕事は決して楽な仕事ではない。極寒の地で鳥の糞の処理や餌の心配をするのが仕事の大半です。心が折れそうになる時だってあります。だからこそ、同じ方向を目指してくれる人でないと、一緒に未来を作りたいと思ってくれる人に出会いたいと思い、この経営理念にしました」(能藤さん)
どんなに辛い仕事でも決して仕事を手放そうと思ったことはないというおふたり。その固い意志には、下川町を想っている気持ちがありました。
「あべ養鶏場の卵が広まっていくことが嬉しいんです。卵が広まれば、下川の名前も広まるってことですから。手放そうなんて考えたことはありません。まだまだ町のためにやりたいことがいっぱいあります」(村上さん)
地域に愛される卵と卵への想いを阿部さんから引き継ぎ、毎日奮闘し続けているおふたりには、常に原動力になるエピソードがありました。
阿部さんから養鶏場を引き継いだ年の年末。年末は毎年、卵の売れ行きがよく、その年もあべ養鶏場は大忙し。そんな時に余命あとわずかと宣告されたお母様の娘さんから、一本の電話がかかってきたと言います。
「”母があべ養鶏場の卵かけご飯を食べたいと言っているから卵を送ってほしい”という内容でした。この時期はちょうど阿部さんから事業継承している時で、鶏を減らしていたため、出荷できる卵がなく皆さんにご迷惑をかけていたのですが、なんとか卵を集めて送ったことがあったんです」(能藤さん)
その3日後、また娘さんからあべ養鶏場に電話が入り、「母が卵かけご飯を食べて息を引きとりました。卵かけご飯を食べられて喜んでいました。ありがとうございました」と連絡が入ります。
「あの時は本当に鳥肌が立ちました。人生の最後の晩餐に選んでもらえるようなものすごいものを作っているんだと思いました。心が折れそうになることもありますが、それでも頑張ってやってきたことが身にしみて感じる瞬間だったんです」(能藤さん)
「私たちはこのあべ養鶏場を引き継いでまだ2年半しか経っていません。これから10年経った時、あべ養鶏場の卵を最後の晩餐に食べたいと思ってもらえるようにするにはどうしたらいいか?を常に考えながら仕事をしています」(村上さん)
50年以上もの間、あべ養鶏場で鶏や卵に向き合い続けてきた阿部さんと、その阿部さんの養鶏場を引き継ぎ、切磋琢磨しているおふたりがいたからこそ、卵かけご飯を通じてお母さんに幸せを届けられたのだろう。
これから先の歴史は自分たちが作っていかなくてはならないと、腹をくくった真剣な眼差し、でもどこか誇らしそうな柔らかい笑みを浮かべたおふたりの表情が忘れられない。
あべ養鶏場で作られる卵は決して安いものではない。いわゆる “高級卵” 。もちろん、素材にこだわり、丹精込めて作っているからこそ価格が上がってしまうという部分もあるが、この卵の価格には、郵送費も大きく関係している。下川町からの県外に卵を出そうとすると、どうしても郵送費が高くなってしまうのだ。
だからこそ、私はおふたりにお会いするまで「別の場所で養鶏場を営んだ方がいいのではないか?」という安易な考えを持っていた。だが、おふたりにお会いし話を聞く中で、私の考えは酷く滑稽で恥ずかしい考えだったと思い知らされる。
彼らは、卵に誠実に向き合っているようで決してそれだけではない。彼らは卵の先に「町の人」や「下川町という地域全体」をみているのだろう。だから常に彼らの話の中心には、町の人や地域そのものがあるのだろう。
そしてだからこそ、地域外からきた彼らがごく自然に下川町に馴染み、町民と一緒に二人三脚で進み続けているのだと私は思う。あべ養鶏場は下川町になくてはならないのだ。
Editor's Note
詳しいことは社内秘ということで、今回の取材では、今後のビジョンについては詳しく聞くことができなかった。しかし、『まだまだやりたいことはたくさんある」と少年のように目を輝かせる彼らがいるあべ養鶏場や下川町に今後も私は目が離せない。
NANA TAKAYAMA
高山 奈々