KAGOSHIMA
鹿児島
現在全国に6千人以上いると言われている地域おこし協力隊(以下、協力隊)。
いわゆる“協力隊の成功事例”とされるのは、3年間協力隊の活動を全うし、その活動の延長線で起業し、地域に定住して、地域の活性化に貢献していくことかもしれません。
しかし、ひとえに協力隊といっても、業務内容・形態や関わる組織の体制は地域によって全く異なります。3年という任期の中で何を成し遂げ、任期後、どう地域と関わり続けていくのか。その答えは協力隊の数だけあり、正解があるわけではありません。
だからこそ、悩みや葛藤も協力隊の数だけあるのではないでしょうか。
協力隊になったからには、地域のためを最優先に考えて活動しなければならない。
協力隊になったからには、起業しなければならない。
協力隊になったからには、定住しなければならない。
自分でも気づかないうちに、いろいろな「しなければならない」に捉われてしまう。
2022年4月から鹿児島県屋久島町の協力隊として活動していた私も、その一人でした。
本記事では、1年4ヶ月で協力隊という肩書きを降ろして、“ただ屋久島に住む人”になった私が、今だからこそ伝えられる当時の葛藤や退任してからの気づきをお届けできればと思います。
地域や行政の目、3年後の自分にプレッシャーを感じながら日々闘っているアナタの肩の荷が少しでも降りて、アナタ自身が心地良くいられる地域との関わり方を見つけられますように。
多くの人にとって「世界遺産の島」であり、「もののけの森がある島」であり、「人生で一度は行きたい島」、屋久島。
そんな屋久島に移住したと言うと、大抵の人に「屋久島は自然豊かでいいところだもんね。羨ましい」と言われ、私が屋久島に惚れ込んで移住したのだと思われることもしばしば。
しかし、私が屋久島に移住したのは、パートナーと一緒に暮らすためです。
パートナーは私より1年先に、千葉県から屋久島に移住し、山岳ガイドになるべく活動をしていました。ガイドとしての生活に目途が立ち、婚約を機に私も屋久島に移住することになったのです。
パートナーが先に移住していたことで、移住前に5回ほど屋久島を訪れていた私は、自然の美しさよりも島暮らしの難しさのほうを大きく捉えていたように思います。
「ひと月に35日雨が降る」と言われるくらい雨が多く、湿度も高いこと。安く一軒家に住めるのはありがたいけど、毎日虫が出ること。なにより、私は旅行が好きだけど、旅に出ようにも本島にいるときの倍、お金と時間がかかること。
惚れ込むどころか、住む場所としては大変だろうな、という気持ちの方が強くありました。
とはいえ、こうした大変さも想像したうえで、これまでの自分の人生には候補にもなかった「屋久島に住む」という選択肢を選んでみるのも面白いのでは、と思ったのです。自分が想像していなかった道に流されていってみる。当時の私はそこにワクワクしていて、まあ何とかなるか!と移住のハードルは意外と低かったかもしれません。
屋久島に移住することが決まり、仕事はどうしようかと考えていたときに、ちょうど協力隊の募集がありました。
自分が住みたくて選んだわけではない土地だからこそ、私がいいなと思えるところを見つけたい。せっかく住むからには、屋久島のことをよく知って、好きになって、楽しんで、盛り上げたい。
そんな単純な気持ちで協力隊になったのでした。
私の協力隊としてのミッションは、屋久島の里の魅力発掘と情報発信でした。
樹齢数千年の「縄文杉」やもののけ姫の舞台と言われる「苔むす森」など、圧倒的に山のイメージが強い屋久島ですが、里にもたくさんの魅力があります。
私は春夏秋冬、島内を駆け巡り、誘われるものには何でもついて行き、自分が実際に屋久島で観たり食べたり体験したことを「#屋久島でしたい100のコト」と題して、Instagramで発信しました。
こうして「#屋久島でしたい100のコト」を発掘・発信しながら、私自身が屋久島の魅力を体感していけたことは、願ったり叶ったりなことでした。
しかし一方で、私はずっと心にモヤモヤを抱えていました。
それは、自分が何者にもなれていないことでした。今自分がやっている活動を、今後どう展開していけるのか見通しが立たないという不安や焦りもあったと思います。自分は地域のために何もできていないのではないか、協力隊としての任務を果たせていないのではないかと、勝手にプレッシャーを感じてしまっていました。
さらに、屋久島の自然に魅了され、屋久島の虜になって移住してきた人たちが、屋久島への「愛」を活動のエネルギーにして事業を展開しているのを見ると、圧倒され、劣等感を感じるのでした。
屋久島で暮らすなら、協力隊として活動するなら、屋久島を大好きでなくてはいけない。誰に言われたわけでもないのに、数々の「できていない・しなくてはいけない」に私は苦しめられていました。
協力隊になり1年が経った頃、LOCAL LETTERの編集者さんから、「協力隊の活動を取材させてくれませんか」と声をかけていただくことがありました。
しかし、当時の私は断りました。メディアで取り上げられている人たちは、新しい事業を起こしたり、自分の好きなことを仕事にできていたり、とてもキラキラした人たちばかり。まだ何も成し遂げられていない、何者にもなれていない私が話せることなんてないと思ったからです。
私の頭の中にある理想の「協力隊像」が私を邪魔していたのだと、今になって思います。
そんな葛藤を抱えながらも、なんとか「#屋久島でしたい100のコト」を投稿し続けられたのは、島内外のフォロワーさんから、いろいろな質問や感想をもらうようになったからです。
初めて屋久島を訪れる方や、数回屋久島を訪れたことがある方からは、「ガイドブック的に使わせて頂きます!」「新しい屋久島を知ることができて、いつも楽しみに拝見しています。次に行くときの参考にします!」という声。
かつて屋久島に住んでいた方からは、「懐かしい景色をありがとう」というメッセージをいただいたり、今後屋久島への移住を考えている方からは、「リアルな屋久島暮らしについて教えてほしい」と問い合わせをいただくこともありました。
島内では、飲食店や祭りで出会った方に「屋久島でしたい100のコトの方ですよね?」と声をかけられることも。
そして、ついに100投稿目を迎えたときには、「おめでとう!」「すごいね!」「たくさん参考にさせてもらいました!ありがとう!」と想像以上の方からメッセージをいただきました。
決してフォロワー数が多いわけではないけれど、「#屋久島でしたい100のコト」を発掘することで出会えた人、発信することで繋がれた人がちゃんといるということを実感できた瞬間でした。
協力隊2年目の3ヶ月が経ったころ、私は「国内ダンス留学@神戸」という8ヶ月のプログラムに参加するため、協力隊を辞めることを決心しました。
急にダンス?何の話?と思われますよね。すみません(笑)。
悩みもがきながら協力隊生活を送っていた私は、地域でも行政でもなく、自分こそが自分を縛っているのだと、どこかで気がついていました。
そして、一旦協力隊という肩書きや、屋久島に住んでいることを置いて、私が本当にやりたいことは何?と日々自問自答を繰り返していたのです。
学生時代から習っていたダンス。自分の人生の時間を何に注ぎたいか、と素直になったとき出てきた答えは「ダンス」でした。私はきっぱり協力隊を辞めて、8ヶ月間屋久島を離れ、神戸に住むことを選びました。
この選択をするときも、「途中で投げ出すのか」「その程度の気持ちだったのか」「自分勝手だ」と勝手にいろいろな声を想像しました。
しかし、屋久島に移住し、協力隊になったから気づけたこの気持ちを、私は大事にしたいと思いました。この選択も、これまでの自分の中にはなかった新たな道だったからです。
自分の本当にしたかったことに全力で取り組む8ヶ月を過ごし、8ヶ月ぶりに屋久島に帰ってきたとき、自然と「ただいま」という気持ちになっていました。再会する人がみんな「おかえり」と言ってくれて、屋久島が私の帰る場所になっていることを改めて実感しました。
こうして迎えてもらえるのは、協力隊として活動した1年4ヶ月があったから。迷走しながら活動していたあの日々が、「ただいま」「おかえり」と言える場所をつくったのだと思うと、協力隊をしていて良かったと思えて、救われた気持ちになりました。
屋久島に帰ってきてすぐ、カフェで出会った方に「何をしている人ですか?」と尋ねられたとき、私は「何もしていません」と答えました。とても痛快でした。あの瞬間は「何者でもない自分」を認め、何者にならなくとも「私は私だ」と堂々といられた気がします。
それから、最近バイトを始めたのですが、バイト先のほとんどの人が私のことを知りませんでした。「まだまだだったな」という気持ちもありつつ、「なーんだ!全然知られていないじゃん」という気持ちにもなりました。
協力隊だった頃、自分は注目されていると思っていました。見張られているというと大げさかもしれませんが、自信の無さからそれくらいに感じていたと思います。でも実際そんなことはなくて。もう少し気楽にやれていたら良かったと思いました。
こうやって退任してから気づくことがたくさんあり、たまに悔しい気持ちにもなりますが、何の肩書きもない状態で屋久島で暮らすのはとても新鮮です。
「しなければならない」から解き放たれ、屋久島を好きになろうなんて無理に思わなくても、空を見て、道端の花を見て、ふと屋久島いいなと思えるようになりました。
そして、「#屋久島でしたい100のコト」の続編の投稿を始めました。次は200を目指して、気張らずに投稿を続けていこうと思っています。
心地良い地域との関わり方、繋がり方は、本当に人それぞれです。私はこれからも屋久島を好きになったり嫌いになったりしながら、等身大の私でできること、やりたいことを模索して、暮らしていけたらいいなと思っています。
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Editor's Note
退任して変わった私のマインドは、何者かにならなくてもいい、カッコつけなくても、カッコつかなくてもいいということ。一瞬一瞬、真剣に悩んで、迷って、考えて。そうやって向き合っていけばいいし、それを隠さなくてもいい。
1年前、自分なんてと取材を断った私が、この記事を書けていることが私の進歩なのだと思います。
CHIERI HATA
秦 知恵里