創業秘話
人生にはたくさんの障壁があります。
例えば、中山間地の農業では、冬は雪に閉ざされて農作業ができない。
大きな農地がとれない。
変わらない価値観、閉鎖的なコミュニティの中で、新たな担い手が育ちにくい。
あげればキリがない障壁ですが、そんな障壁を抱えた中山間地である新潟県十日町市で「里山農業を、心うごく世界に」を掲げ、サツマイモの栽培・加工をはじめ、チャレンジ加工所の運営、こども農具の販売、女性農家コミュニティの運営など、幅広い事業に挑戦し続ける女性がいます。
彼女の名は、佐藤可奈子さん。サステナブルでワクワクする里山農業を目指すwomen farmers Japan株式会社(以下、wofa)の共同代表です。
今回は小さな農家が多い中山間地域において、一人ひとりの農家が自分らしく生きるために事業を続ける、佐藤さんのしなやかで強い創業秘話に迫りました。
「最初に農園を法人化したのは2018年です。それがwofaの前身ですね。当時は違う社名でしたが今と同じように、サツマイモを栽培して干し芋を作っていました。2021年に社名を変更したんですが、この時に農村女性の自立支援と農業課題の解決に真正面から取り組む姿勢を言語化したんです」(佐藤さん)
「今掲げている『里山農業を、心うごく世界に』というメッセージは、最初の法人化の時から同じですが、wofaに社名変更してから、すごく解像度が上がりました。価値を届けたい対象が、ぼんやりとした『地域』から、農村女性や男女問わず就農したばかりの方に絞られ、農業を通じて、女性の権利と尊厳に向き合っていこうとなったんです」(佐藤さん)
就農した当初から、中山間地域の農業の古い慣習や、変わらない価値観に疑問を抱いてきた佐藤さん。男性の家長が主体となり、家族経営を基本とする農業の仕組みの中で、女性の立場の低さに直面してきました。
「女性農家さんの中には、私以上にシビアな経験をされてきた方がいます。人間的な扱いをされて来なかったとか、wofaに関わるようになって初めて自分名義の通帳を作ったとか。
そもそも賃金制度がなく、どんなに重要な役割を担っていても、ご近所さんからは「家の手伝いをしてて偉いね」と言われたり、いつまでたっても家政婦扱いだったり。権利と尊厳が保障されない状況の中で、他に選択肢がないから、ただただ農業を続けている人がいます。単純に加工場を運営して、女性農家さんを雇い稼ぐ仕組みを作るだけでは、女性農家さんは幸せになれないと感じるようになりました。それで家族経営で農業を営む代わりに、成長しあって高めあえる疑似家族のようなコミュニティが必要だと思ったんです」(佐藤さん)
wofaでは事業を通じて「自分のことを自分で決める」という当たり前のことを実現することに、目をそらさず向き合っています。
「農協に集荷するときは決められた規格とルールに自分たちが合わせることになるんです。でも、wofaの芋の集荷は、1コンテナあたり本当は20kg入るけれど、あえて17kgと、女性でも持てるような重さで集荷をしています。自分たち独自の販売ルートを持つことで、自分たちの在り方に合わせて、ルールを決めることができるんです。wofaでは女性農家さんやママ農家さんの視点を起点に様々なことを考えているので、皆さん『こんな楽しい職場ない』とよく言ってくださいます」(佐藤さん)
「就農」はそれ自体が「創業」といえます。
佐藤さんが創業を志したのは、大学生の時。新潟県中越地震の復興ボランティアで、新潟県十日町市にある6軒13人が暮らす限界集落に出会ったことがきっかけでした。
「限界集落と言われていましたが、実際に訪れてみるとそこは全く限界ではなかったんです。地域の農家さんたち、おじいちゃんおばあちゃんたちが夢を語っていて、限界を希望に変える力に溢れていた。それを見て、都会からたくさんの人やサポートが集まっていた時期でした。私もそのエネルギーに感動して、通うようになったんです。
そこで農業のお手伝いをする中で、農業が生む価値観や美意識、変化に対してしなやかな生き方や在り方に触れて、こういう大人になりたいと思いました。単純にこの生き様を繋ぎたい、と大学卒業した年に移住して就農しました」(佐藤さん)
「一般的に就農はそんなにサクッとできるものではないんですよ。何をやるにしても、資本である機械と土地がなければ始まらない。農業はやっぱりそのハードルが高いですよね。
私の場合は出会った地域自体が、農業をやりたい若者に来てほしいというメッセージを積極的に発信していたので、実は最初のハードルはあまりなかったんです。始めるよりも、生計を成り立たせる積み重ねの方が大変でしたね」(佐藤さん)
集落に通ううちに「移住して農業をしたい」と口に出すようになった佐藤さんに、地域の人は農地や機械を確保してくれました。最初は廃校になった学校の理科室に住み始めることに決め、がむしゃらに農業に打ち込む生活をスタートさせます。
「この冬に亡くなった方で、すごくお世話になった師匠が1人いるんです。就農当時から、その人が全力を注いで私のことを育ててくれました。最初の2年ほどは、『農地も機械も全部ただで貸すから頑張れ』と応援もしてくれて。
『女に農業は無理だ』と言う人もいる中で、『気持ちがあれば女だって全然できるんだよ』って言ってくれたんです。『無理だと言うのはやりきってないやつか、やってないやつだから、俺は応援する』と。本当にずっと信じ続けてくれました。その師匠の存在がすごく大きかったからこそ、全力で向き合おうとがむしゃらになれました」(佐藤さん)
干し芋づくりを始めたのは2013年。もともとは茨城県の加工場を借りていましたが、毎年売り上げが倍増していく中、2017年になると「これ以上の量は加工を受けられない」と言われてしまいます。
「いよいよ十日町に加工場を建てなければいけない、と思いました。それまでは契約農家さんの力も借りながら、基本的には1人で、ただただ芋を作っていたんです。ここからは、ちゃんとした形にしなきゃいけないという焦りもありました」(佐藤さん)
このままじゃまずい、その一心で起業塾にも通いはじめ、佐藤さんは法人化の道に進んでいきます。
「2018年、最初に法人化したときのハードルは、ルールと労務がわからないことでした。そもそも私は会社勤めをしたことがないので、会社がどんなものなのか全くわからない状態。新卒の社員の子と2人で始めて、私も走りながら勉強してたし、社員の子も何もわからないままついてきてくれたっていう感じで、すごくしんどかったですね。
作付けして品質の良い作物を作り続ける技術と、人とお金の管理は全然違うエネルギーだし、必要な知識も違ったんです」(佐藤さん)
そんな中、大きな “失敗” と向き合うことに。
「法人化前の2017年から加工所の建設に向けて準備していました。全てが新しいことだらけで、やらなきゃいけないことはたくさんあって。そのころ、私自身も出産して子どもが生まれて忙しくなって。栽培も販売も、お金の管理も、それまで自分で全てやっていたのですが、1人で抱えきれなくなっていきました。そんな中でも、畑で芋は育っていく、草はどんどん生えていく。もう全然回らなくて。
集落に加工場の計画の説明を重ねる中で、『子育てしながら加工所の運営なんて無理だ』とか『お前は子育てに専念しろ』とか、結構いろんなことを言われました。加工所を建てることに反対する人たちとのコミュニケーションにも時間を割かなくてはいけなかったんですけど、完全に人間が足りない。というか、私が足りない、そんな状態でした」(佐藤さん)
国からの助成金も交付され、着工する直前、佐藤さんは『加工所建設中止』という決断を下します。当時の法人役員は解散、社員も辞め、佐藤さんは再び1人に。
「最初の法人化の失敗は大きなチャレンジをするときに、1人だけ雇うという形をとったことです。wofaの時には一気に10人くらい入れたんですが、その方が断然楽でした。大きい勇気が必要だったなと思いましたね。1対1じゃなかなかチームにならないし、力が出ないんです」(佐藤さん)
会社を手放した後、一度は「農業もやめようか」と考えた佐藤さんでしたが、
移住後からお世話になっていた女性の先輩農家さんからの「実は女性がチャレンジできる加工所をやりたいと思ってる。加工所をもう一度やらないか」という声かけに加え、アジアで干し芋が賞を受賞し、大企業から「干し芋の年間販売をしたい」という打診を受け、再び前進しようと今のwofa創業への道が繋がります。
「いろんなご縁が運ばれてきた感覚があって。やっぱり『やれ』ってことなのかな、みたいな。それが続けてこれらた要因ですね。家族と耐え忍んでいるときに、いろんなものが風に乗って運ばれてきた、みたいな感覚はすごくあります」(佐藤さん)
形を変えながら農業を続けてきた中で、佐藤さんは農家として生きるために重要なことにも気づきました。
「農家って栽培に関することだけにフォーカスしがちなんですけど、プレイヤーからステージを無理やりにでも変えることが大事だと思います。自分の見ている景色を意識的に変えたほうが絶対にいい。
私自身1人の農家から、法人化して農業法人を経営するまでやりましたが、ずっと現場にいるだけでは見えてこない景色があったと思います。いろんな方からアドバイスや学びを受け、自分の視界が広がったことで、目隠し運転をしてるような状態だったなと思いました」(佐藤さん)
「周りの農家さんに接していると、ざっくりと仕事をしてるという方がすごく多いと感じます。自分はいったい時給いくらでこの作業をやっているのか。あるいは商品にしても、原価はいくらなのか。商品や自分の行動、圃場(農作物を栽培するための場所のこと)など全てにまつわるものを数字に変えると、景色が変わっていくんです。
ただプレーヤーから経営者に変わる、といっても、農業簿記を学んだら開ける世界ではないんですよね。実際に自分が生み出している世界を数字に変えて、実践して初めて見えてくるもの。私自身も、起業家さんといろんな対話をするようになってから気づきました。社会起業塾に入って、経営者としての考え方や向き合い方、あるいは自分自身のセルフマネジメントを学ぶようになって、それをきっかけに農園も変われました」(佐藤さん)
最後に、失敗しても、苦しんでも、農業に打ち込む佐藤さんのエネルギーを伺いました。
「毎年必ず、何が起きても、こんこんと恵みを与えてくれる大きな存在に圧倒されるんです。
ゴールデンウィークぐらいから雪が解けて農道が空くんですよ。そのころになると、一番最初に水路の掃除からはじめるんです。雪解け水が山のずっと奥から溢れてくるので、その水が自分たちの田んぼに行くように水路をしっかり通していく。それは、山の血管を通していくような作業。
世の中がどうなっても、大地は変わらず春は来るし、水は溢れる。自分ではどうにもならない自然の恵みに、リアルで対面することができる。そういう現場に出会わせてくれる農業の素晴らしさというか。それはすごく好きです」(佐藤さん)
「今、私はパソコンに向き合うばっかりなんですけれども、いき過ぎると人間だけの世界、架空の数字と向き合ってる手触りのない世界しか見えなくなるんですよね。
山に入って自然の中にいると、そこにある命が全てフラットに感じるような感覚があって。そういう人間としての感覚に戻してくれるような体験ができる農業は、他の職業にはない素晴らしいものだなと。その体験がお金とか価値を生むわけではないですが、いつも人間に引き戻してくれる自然のエネルギーが魅力です」(佐藤さん)
自然に向き合い、しなやかに生きる。
事業を継続する上でも重要な姿勢が、佐藤さんの豊かな仕事に結びついていました。
Editor's Note
私の出身地は新潟県十日町市から車で40分ほどの場所にあります。風土も近いので、身近だった里山の風景や農業という生き方について、思いを馳せながら取材させていただきました。
創業というと最初の一歩目に気を取られがちですが、続く道をいつまでも創り続けていくことの過酷さ、素晴らしさこそ、それぞれの起業家独自の「創業秘話」なのではないかと感じました。
AYAMI NAKAZAWA
中澤 文実