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ともしびプロジェクト代表インタビュー!生死を彷徨った彼が今、東日本で挑戦し続ける理由とは

SEP. 04

MIYAZAKI

前略
自分の気持ちに素直になれないあなたへ

1986年生まれの32歳。熊本県に生まれ愛知県で育ったという杉浦恵一さんは、東日本大震災直後から被災地へ関わり続け、宮城県気仙沼市に移住を決める。

現在、東日本のことを考えるきっかけ作りとしてのキャンドルアートプロジェクト「ともしびプロジェクト」や co-ba kesennuma をはじめ、全国での講演、架空のお寺「他力本願寺」の住職、他力本願寺で行われる「坊主BAR」の企画など、様々な分野で活動中の彼。今回はそんな彼の原点に迫りました。

左から3番目の男性:杉浦恵一さん
左から3番目の男性:杉浦恵一さん

プロフィール
杉浦恵一(Sugiura Keiichi)
ともしびプロジェクト代表
高校卒業後、ヒッチハイクの旅に出たことから旅の面白さに魅了され、日本中を旅するようになる。2011年3月11日に発生した東日本大震災の直後から震災復興に携わり、2011年に立ち上げたキャンドルアートプロジェクト「ともしびプロジェクト」の代表を努めている。

九死に一生を得た高校最後の冬

転機が訪れたのは、彼が高校3年生の1月31日。

彼が運転していた車に、赤信号無視の車が突っ込んだのだ。フロントガラスを飛び抜け7mほど飛んだという彼は、意識不明の重体。目が覚めた時に見た景色は、病院の真っ白な天井だった。

手術が成功したとはいえ、暫くは絶対安静。身体を動かすこともできない彼は、必然とベットの上で「退院したら何をしよう」そればかりを考えていた。当時高校3年生だった彼が考えて出した結論は「とりあえず東京に行こう」そんなシンプルなものだった。

自宅療養に切り替わった瞬間、彼は行動を起こす。家にあったたった三千円を握りしめ「東京行ってくる」という言葉だけを残して旅だったのだ。

一般の交通機関を使って三千円では東京にいくことはできない。だから彼は、ヒッチハイクで東京に向かう。東京で三千円で生活するのには少し無理がある。だから彼はいろんな人と知り合い、自宅に泊めてもらいながら、東京で三週間生活を続けた。

実は東京に来るまで、東京には「冷たいイメージ」があった。でも行ってみると、初めて出会う人たちが彼のために何とか力になれないかと奮闘してくれた。

それまでの彼は、自分が住んでいる世界が自分の全てで、大人に文句ばかり言っていた。でも自分の知っている世界から少し飛び出すと、そこには見たこともない大きな世界が広がっていることを目の当たりにしたのだ。

旅で生きるために旅を始めた

本当に面白い体験だった。会う人、見るもの、感じるもの全てが新鮮で、この経験があったから今でも旅好きなのだと思う。

東京から戻ると、今度は高校の卒業旅行で行くはずだった沖縄に3万円を握りしめて向かった。東京の時握りしめていた金額の10倍もある今回の旅行費。とりあえず行きのチケットだけを購入し、飛行機に飛び乗る。「旅にトラブルはつきもの」とはよく言ったものだ。沖縄で彼はお財布を盗まれてしまったのだ。

さて、どうしたものか。そんなことを考えながら海でぼーっとしていると、何だか清々しい気持ちになってきた。なぜなら、今まで自分が大切だと思っていたものが急に目の前から無くなっても、自分自身は大切なものがなくなる前と同じようにその場に存在している事実に気づいたから。

もういっそのこと、このまま働き始めて沖縄に住んでしまおう。とにかく人に恵まれた彼は、沖縄でも楽しく働きながら暮らしていたが、働き始めて4ヶ月が経った頃、再び交通事故の手術を行うために地元へと戻る。彼が20歳の時だった。

22歳の時には、沖縄で出会った旅人が言っていたお遍路を巡り、50日間で88ヶ所のお寺と約1400kmを歩ききった。

それから2年後、彼が24歳になった時「またどこかへ旅に出よう」と思ったのと同時に、これからの生き方についても考え始めた。正確にいえば、両親からの「定職につかなくていいのか?」という言葉がきっかけ。旅が大好きだからこそ、旅で生きていく方法を見つけたいと思った。

でも頭で考えてもわからない。だから旅で生きていくための方法を旅しながら考えようと思い、また旅に出た。愛知から太平洋を登ってまずは東日本へ。北海道で折り返して、日本海を下って冬には地元の愛知に戻り、一旦休憩。暖かくなったら今度は西日本へ行こう。そんなことを考えながらトイレに入っていた時、急に長い横揺れを感じた。交通事故の後遺症で脳震盪があったから、また脳震盪がきたのかなと思っていると、リビングでテレビを見ていたはずの祖母の大きな悲鳴が聞こえた。駆けつけると、テレビには「大地震」の文字。東日本大震災が発生したのだ。

東日本大震災を経験し、覚悟を決めた

あんなに大きな大地震を一体誰が予想したというのだろうか。ついさっきまで旅していた東北が一瞬で大きな被災地になったのだ。

すぐに自分にできることを探し始めたら、集められた物資を運ぶ人がいないことを知った。すぐさま手を挙げた。とにかくトラックに積めるだけの物資を積んで、愛知県からひたすらトラックを走らせる。トラック走らせた時は、行き先も決まっていなければ、どこに入れるのかもわからない状況。それでも愛知で情報を調べてくれていた先輩と連絡を取りながら、トラックを走らせ続けた。

最終的にトラックで向かったのは、福島県いわき市。原発が爆発し、支援も足りていないという情報を聞きつけて、駆けつけたのだ。いわき市に着きトラックを降りると、声が出ないほどの衝撃を目の当たりにした。数週間前に見た景色とは全く違う、リアルがそこにはあった。

いわき市ではボランティアスタッフとして、物資の仕分けから、仕分けた物資を各避難所に届ける仕事をしていた。避難所に行くと彼に長蛇の列ができた。あんなにも「ありがとう」と言われ、握手を求められたのは後にも先にもあの時が初めてだった。

愛知に住んでいる家族や友人からは「放射能にあたったら危険だぞ」という連絡が鳴り響く中、被災地の人たちは普通に外に出ていた。情報の格差に驚き、放射能の話をするべきなのか葛藤した。

そんな時だった、地元のおっちゃんに「浜を見に行こうや」と声をかけられたのは。浜のある海までは、遺体の撤去のために自衛隊が作った一本道がある。自衛隊はすでに撤退しており、残った一本道をおっちゃんと一緒に歩きながら海へと向かう。

この時、今まで感じたことのない感情を体感する。悲しみ、怒り、一周回って笑ってしまう。パニック寸前になるほどの衝撃だった。この瞬間、彼は自分に少しでもやれることがあるならやろうと決意した。

一度生死を彷徨ったからこそ、とにかくやってみようと振り切る彼にはまだ東北でやれることがあるからこそ、この場所から離れない。

旅をして生きることを目指していた彼が、東北という場所で覚悟を決め、地元の人と関わり続けているからこそ始められた「ともしびプロジェクト」は、今や海外でも支援者がいるほど大きなプロジェクトに発展した。後編では、そんなともしびプロジェクトを始めた経緯や想い、これからのビジョンに迫ります。(後編はこちら

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