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LOCAL LETTER

たったひとりから始まるまちおこし。地域へ恩恵をもたらす深谷シネマのストーリーとは

JUL. 27

SAITAMA

拝啓、地域で事業を定着させることは遠い道のりだと思っているアナタへ

愛着のあるまちを文化事業で盛り上げたい、活性化させたい。そう思っている人は多いことでしょう。

では、どうやってきっかけを作り収益を出すのか。都会よりも人口が少ない地方において、どうすれば事業として継続できるのか。事業を立ち上げても悩みが尽きないのが現実なのかもしれません。

埼玉県深谷市にある、席数わずか57の小さな映画館『深谷シネマ』は、そんな悩みを乗り越えながら2026年で開館から24年を迎えます。深谷のまちの名物でもあるこの映画館は、どうやって事業を継続してきたのか。創業者であり名誉館長も務める竹石研二さんのこれまでと現在のお話をお届けします。

竹石 研二氏 深谷シネマ名誉館長 / 東京都墨田区出身、1948年生まれ。横浜放送映画専門学院第1期生。長年住んだ深谷市に映画館をつくるため、50歳で勤務先を退職。有志での上映会開催、市民団体の立ち上げを経て、2002年に『深谷シネマ』をオープン。2024年まで館長を務め、名誉館長となった現在も映画文化の振興とまちの活性化に尽くす。

深谷の地で作り上げる喜びを、次世代へ引き継いでいく

埼玉県北部に位置する深谷市は、深谷ネギが全国的によく知られる農業地帯の広がるまちです。

深谷シネマは市民と行政が連携して始まったミニシアターとして、各地から視察に人が訪れる映画館。開館以来、深谷シネマの顔として、毎日のように観客を迎え入れてきた竹石さんは2024年に館長としての実質的な運営業務から退き、名誉館長となりました。

「深谷シネマを次世代に任せたので、好きな映画を好きなだけ観られるようになりました。

それから農業組合法人を立ち上げネギ農家を手伝っています。深谷は土がしっかりしていて作物がよく育つ。収穫の喜びは何かを作り上げる喜びですね。映画も農業も、それは同じです」

2024年に、深谷シネマを運営する認定NPO法人の理事長と深谷シネマの館長は、それぞれ新しい人へとバトンタッチしました。

「NPOって創業者の想いは強いけど経営は二の次で、次世代への事業継承がうまく行かないことが多いんです。でも本当にありがたいことに、次の人たちへの引き継ぎは自然な形で行われました。

新理事長の小林真くんは深谷市議会議員兼ライターで、深谷シネマの広報的な役割も果たしていて、新館長の小林俊道くんは細かな配慮で数字の管理も得意。それぞれの得意を活かしていて、安心して彼らに任せられます」

邦画・洋画を取り混ぜた深谷シネマのラインナップ(http://fukayacinema.jp/)

運営の世代が若くなったことでミニシアター系作品の上映が増え、遠方からの来場者も以前より多くなり、平均年齢も若返っているそうです。

「お客さんの年齢層が幅広くなって、世代間をつなぐ映画のラインナップを工夫した結果、ここ最近はいい感じで来場者数が回っています」

2025年には、運営面で提携していた『一般社団法人まち遺し深谷』と『NPO法人市民シアター・エフ』を一本化して、NPO法人に運営をまとめました。

「市民シアター・エフの認定NPO法人としての信用や行政との関係も考えて決めました。細かな行き違いが起きる時もありますけど、みんなで話し合って前に進みたいですね」

深谷市では新たなエリア開発が計画され、深谷シネマのある場所も計画に重なっていますが、『一緒に考える場』を持っていきたいと竹石さんは語ります。

変化の時を迎えている深谷シネマ。その始まりにはどのような経緯があったのでしょうか。

名画ポスターのレプリカが味を出している深谷シネマのロビー

本当にやりたいことでまちを元気に。50歳からのスタート

竹石さんは、東京都墨田区で生まれ育ちました。竹石さんが子どものころは歩いていける距離に映画館があり、大人たちに混じってよくチャンバラ映画三本立てを観に行っていたとか。

「高校卒業後に職を転々としていた時、今村昌平監督が新しく映画学校を開校すると知って、これだ!と思いました」

1975年に横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)の1期生として入学した竹石さんは、卒業後に映画関連の会社で約10年にわたって上映会などに携わった後に、埼玉県深谷市に移住します。

「妻の実家がある深谷は、歴史もあっていいところなのに商店街が寂しいと感じていました。商店街の空き店舗にまちの人たちが集まれる場所としての映画館を作りたいと思い始めました」

映画会社の次に働いた生協(生活協同組合)で、県内の別の場所へ異動になった際に自分は深谷というまちが好き、深谷を離れたくないと実感した竹石さんは本当にやりたいことをやろうと決意し、生協を退職します。ちょうど50歳のときでした。

壁には初代名誉館長の故・大林宣彦監督とパートナーの恭子さんの絵が飾られている

有志で上映会を開催したところ、2週間で延べ1,150人が来場しました。

「深谷のフクノヤさんという洋品店の一角を貸していただき、リクエストの声があった『愛染かつら』を上映しました。

農村地帯の深谷に遠くからも多くの人が来てくれて、上映後に皆さんが車座になって話しているのを見たときに『なじみやすい日本映画を、もっときちんと上映しないといけないのではないか』と感じたんです」

都心に足を運べばミニシアターはいくつもある。でも地元に映画館があれば遠くまで行かなくても済むし、憩いの場にもなる。農村地帯の深谷のまちに合った常設の映画館を作りたいと、竹石さんは動いていきます。

過去に深谷シネマで上映された、懐かしい映画のパンフレットが並ぶ

「その頃、利益重視ではない取り組みを後押しする特定非営利活動促進法(NPO法)ができました。『自分たちのまちに自分たちの映画館を作る』を実現すべく、仲間とNPO法人市民シアター・エフを立ち上げました。

NPOの構想が深谷TMO事業*に採用され、深谷商工会議所が仲介役となってNPO、商工会議所、市の三者連携が整いました。市が旧さくら銀行跡地を借りてくれることになり、2002年に『深谷シネマ*』が開館しました」

*深谷TMO事業・・・深谷市の中心市街地における商業まちづくりを、横断的・総合的に調整しプロデュースする事業。https://fukaya-tmo.com/

*当初は『チネ・フェリーチェ』という名称だったが覚えにくいとの声から『深谷シネマ』に改名。

はじめは旧さくら銀行跡地でオープンした深谷シネマ(写真提供:深谷シネマ)

「深谷には30年間映画館がなかったんです。最初は恐る恐る来ていたお客さんも『この映画館はちゃんとした上映をやるんだ』と信頼してくれるようになり口コミで徐々に客数が増えていきました」

初期の運営から中心にいたのは竹石さんともう一人、映写の好きな永吉洋介さん。とはいえ当初は無給でした。貯金を食いつないで3年目でようやく人件費が出るようになったとか。

57席しかない映画館が「遠くからでも一度は行ってみたい」と言われるまで

ボランティアの力も借りながらようやく軌道に乗ってきたところに、2008年のリーマン・ショックと、深谷市の区画整理事業による立ち退きの危機に見舞われます。

酒造跡に保管されている数々の映画の16mmフィルム

「移転先を探していたときに深谷で元禄時代から続いてきた『七ッ梅酒造』が廃業になり、オーナーとご縁ができました。『深谷シネマの移転先が見つからず困っている』と相談したら『ここに来ればいい』と言っていただきました」

こうして移転が決定。改装費用の8,000万円は国の補助金、銀行融資、そして市民からの寄付でまかない、2010年、深谷シネマは七ッ梅酒造跡地に移転オープンしました。

「クラウドファンディングなんてない時代。映画館にチラシを置き、寄付を募りました。一般社団法人まち遺し深谷が管理・運営をする形になりました。複数の建物が残る七ッ梅酒造跡は全体で900坪あり、最初に深谷シネマが入って、今では他に十数店舗入っています」

七ッ梅酒造跡は年季の入ったレトロな雰囲気が魅力ですが、古い建物ならではの修繕が必要になります。内部の片づけやリフォームをする代わりに安価な家賃で入居できるシステムで人が集まり、古書店、カフェ、瓦工房などこだわりの店舗が並ぶ人気スポットとなりました。

七ッ梅酒造跡の味わいを生かしたエリアは、深谷の人気スポットとなっている

移転オープン後、深谷シネマは着実にその名を知らしめていきます。

「基本的に二番館だけど、昔の映画を観たい人のために名画座の役割もしています。洋画・邦画が半々くらいですね。1スクリーン・57席しかないから上映できる映画は限られるけど、皆さんのニーズを満たしたいからね」

年間2万5千人ほどになった観客数はコロナ禍で一時減りましたが、今は年間約2万人まで回復してきました。上映後のアフタートークに監督や俳優が登壇することも頻繁で、最近は配給会社から「監督が行きたいと言っています」と声がかかることが多いのだそう。

「ローカルで面白い映画館があるという評判があり、いろんな映画人の方たちが『一度行ってみたい』と思ってくださるそうです」

深谷シネマ運営に不可欠な来場者アンケート

深谷シネマでは来場者にアンケートを取り、次回作選定の参考にしています。

「映画館は作品に恵まれるかどうかが全てで、『皆さんが観たい映画を一緒に観ていきましょう』というスタンスでいます。万全を期して上映しても赤字になることもあります。黒字と赤字の割合は6:4くらいかな。

上映回数を増やしても興行が振るわないこともあるし、逆に想定外に客入りがいいこともある。どちらも面白いし、僕らも視点を変えて学んでいます。『蓋を開けないとわからない』緊張関係が楽しみです。それがむしろ芸術の醍醐味でもあり魅力でもあります」

映画館の理想と現実の経営とは表裏一体で、数字の心配と同時に期待もしながら、竹石さんは楽しみながら運営をしていきます。

コロナ禍の際には、市民からの直接の寄付やミニシアター・エイド基金を通じて寄付金が集まった流れもありました。

「全国のミニシアターもデジタル化によって、DCP(デジタルシネマパッケージ Digital Cinema Package)という映写機でしか上映できなくなりました。これは入れ替えるのに1,000万円近くかかり大きな負担になる。続けられないところが出てきています。

そういう機材面での苦労、仕組みの中でしかやれないもどかしさはあります。何とか乗り越えていこうと思っています」

映画館の運営に必要な資金は、寄付を募るなどして地道に集めている

見つめるのは明日だけ。誠意をもって情熱を伝えれば結果はついてくる

深谷シネマの前身から数えて約25年を経た今、竹石さんは振り返ってどんなことを想うのでしょうか。

「創業時、僕らは素人だったから経営なんて全部手探りでした。ただただ『このまちに映画館を作りたい』、その情熱だけをミッションにして後ろを振り向く暇もなく、想いだけで突っ走っていました。

1日1日、いろんな人と出会って、皆さんの支えがものすごい原動力になってこれまで進んでこられました」

温かみのある入口が観客を迎え入れる

日本の自治体の8割に映画館がない現状を、「映画とは文化である」と語る竹石さんは由々しきことだと考えています。

「空き店舗だらけの商店街だったらその一角に、補助金や税金を上手に活用して作ったら、市民も応援してくれるのではないでしょうか。全ての人の生活エリアに文化があることが重要なんです。映画は庶民の娯楽であることを忘れちゃいけない。

市民と行政が一体になれば、まちのにぎわいは作れます

行政が一方的に映画館を作ったり作品選定を行ったりすると『魂』が薄くなる気がします。市民が主体的に動いて、僕らが作るんだという想い、緊張感がないと伝わらない

もちろん映画館の側もなるべく敷居を低くするんです。知らない人同士が暗闇の中、映画を観て共感する。デジタル化が進んだ今でも、映画の魔法は生きています。僕らは映画を取り戻す活動をしたいのです」

精米所を改装したホールではイベントも行われている

決して利益先行ではなくまちへの熱い想いが根底にあるからこそ、長年にわたり地域の人たちや行政、商工会議所も支えてくれたのでしょう

今後はどのような展開を描いているのでしょうか。

「実は僕の出身地である東京都墨田区に映画館を作ろうと『すみだのまちの映画館プロジェクト 』として動いています。このプロジェクトは墨田区の助成金をいただいていて、今年からワークショップを行っています。

2020年に労働者協同組合法が制定されました。これは市民が出資してミッションを決めて事業を行うもので賛同者が増えれば出資も増える方式で、このプロジェクトにも労働者協同組合が入ってくれています。実現すれば一般的な雇用とは違う、ワーカーズコープ方式の映画館になりますね。

墨田区を盛り上げている『下町人情キラキラ橘商店街』の方とも繋がり、映画館実現の力になっていただけそうです。

僕らはお洒落じゃないけど『超・名画座』というか、下駄ばきの映画館みたいに気軽に立ち寄れるスポットを作って、墨田のまちも盛り上げたいんです」

ところどころにある酒造の名残が、深谷シネマの道のりを偲ばせる

50歳から始めた映画のことが78歳になってもさらに展開していく。竹石さんはものすごいパワーで今も進んでいます。

まちを盛り上げたい。その一心で考えていけば協同も生まれ、やがて結実する。地域の人と誠実に向き合ってきた25年間の積み重ねが竹石さんの今を支え、そして未来へと繋がり続けています。

Editor's Note

編集後記

映画館をまちに作るという大きな夢を大切に、きちんと事業に対応して人脈をつくること。竹石さんの取り組みは、地域で事業を始めようという人にとって共通で学べることではないでしょうか。誠実な取り組みが結果を出すこと、決して派手ではないけど大切なことを学ばせていただきました。

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